区画にもどっていることがわかる。さらにその後も白河郡はじめ石背五部(白河・石背・会津・安積・信夫)に関する記事について国の正史ではすべて陸奥国の行政区画としてあつかわれている。つまり養老2年5月に成立した石背国はその後神亀5年以前に数年でまたもとの陸奥国に併合されていたことがこの記事からわかる。石背国の存続期間が数年しかもたなかったが、この国が陸奥国にまた併合された理由はこの頃の律令政府の政策あるいは東北地方の歴史的・社会的・政治的背景を考えた時にうなずける。この時期、都では律令政府より大宝律令が発布され七道諸国に施行される。この大宝律令の本来の目的はかたまりつつあった律令国家の骨組をより強固なものとし安定させることにあった。そしてそのためにもっとも力の入れられたのが地方行政制度の強化にあった。その一例として分国による新たな国の設置、たとえば、東北地方では和銅5年(712)越後国の一部と陸奥国の一部を割りてこれを併合して『出羽国』の設置、さらには6年後の養老2年5月の石背・石城両国の設置などがそれである。あるいはこういった地方行政制度の強化に伴なって、国府機構・郡衙機構の整備とより一層の充実などがその主なものである。中央ではたび重なる遣唐使の派遣・墾田百万町歩の開墾計画に伴なって三世一身の法の施行、古事記・日本書紀・風土記の編纂など、そして都も飛鳥藤原の地から平城京へと遷都し、天皇も元明・天正と中継ぎし、やがて首皇子が即位して聖武天皇となり律令国家として最盛期をむかえる。この様な状況下の中で、律令政府の国策の一環として石背国も誕生するわけであるが、しかしこの様な政策の一方で陸奥国・出羽国などではきびしい自然環境の中での生産力の拡大を計った耕地の開拓、蝦夷との対立から実施される蝦夷征伐などの対蝦夷政策といった他の国々とは異なった状況下にあった。和銅5年当初、陸奥国に於ける管轄下の郡は20郡たらずの郡しかなかったものと思われるが、その中から和銅5年には2郡を出羽国に併合、養老2年には石城・石背両国に11郡を併合という形でそれぞれ割いている。したがって養老2年の段階での陸奥国は、南は阿武隈川河口から以北と西は奥羽山脈の東側までの地域で残された郡も数郡になってしまった。陸奥国そのものが面積及び管轄郡が小規模となったため、国としての経済基盤が大巾に縮少される結果となる。こういった中で鎮守府の造営、国府の造営、そしてやがては国分寺の造営といった大事業をかかえることになる。この様な大巾に縮少された経済基盤でかかる事業を対処することはきわめて困難であったものと思われる。その様な経済的事情から結果的には出羽国はそのまま存続させても、南部地域の石背・石城両国については廃止し、またもとの陸奥国に併合せざる得なかったものと思われる。いわば多賀城の造営はこういった歴史的背景の中で神亀元年頃に着工したものと思われる。そして19年後の天平13年(741)多賀城造営にある程度目度のついた頃、陸奥国でも国分寺の造営という国府以上の大事業が行なわれることになり、また石背国・石城国もこれにまきこまれる形となる。こういった理由でそのまま陸奥国に併合されたまま永久的に復帰できなかったものと推定する。以上が養老2年に陸奥南部の地域に設置された石背国と数年で廃止されたその理由であるがこの石背国の国府は石背郡内に置かれ、その推定地は、現在の須賀川市に所在する上人壇廃寺跡と考えられる。
古代の白河郡
古代白河郡は承平5年(935)頃に成立した『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」郷里部によると、大村・丹波・松田・入野・鹿田・石川・長田・白河・小野・■家・松田・小田・藤田・屋代・常世・高野・依上の17郷から構成された当時の陸奥・出羽両国に於ける最大の規模をもつ郡で火郡に属す。南は下野国那須郡と常陸国久慈