泉崎の文化財-015/27page

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大網本廟跡(おおあみほんびょうあと)
所在地/泉崎村大字関和久手古寺
 泉崎村大字関和久字古寺の県道白河滑津線を挟んで南側と北側に分割されてこの遺跡があります。
 南側の石塀に囲まれた中に「大網霊場阿弥陀本堂之跡」の高い碑が建ち、北側の石塀の囲いの中には「大網本廟」の碑と説明碑及び礼拝堂が建っています。礼拝堂の裏の一段高い壇に石棚で囲まれて如信上人の墓があります。この墓所から100メートルほど離れた山際に「如信上人仏飯清水之跡」があり、いまも涸れることなく泉が湧いています。
 浄土真宗の開祖親鸞上人の孫で法統二世の如信上人が奥州の布教活動の拠点として建立した大網寺の跡であります。
 説明碑に次のように書いてあります。「浄土真宗第二の祖如信上人は建治元年(註、1275年)中夏、救世菩薩の告命と教祖親鸞聖人の意志とを遵守し、奥州北平山字大網のこの地に錫を留め本寺を創立し奥の坊と称し在住されたが正安2年(註、1300年)正月4日、64才をもって宇都の金沢(註、栃木県那須郡)に住した弟子乗善のところで入寂された。正和元年(1312年)春、本願寺三世覚如(註、親鸞の曽孫)が上人終焉の地を慕って金沢に至り、それより大網の本坊(註、現在の当地)に詣でて十三忌の法要を営み、正和4年(1315年)金沢の墳墓を改めて本坊の辺に移葬し大網本廟を建立した。本坊は寛永2年(1625年)5月、時の白河城主丹羽長重の要請によって現今の城南大工町に移したが、霜雪700余年、今日なお本廟と真宗弘法の根本道場跡はここに現存されている。大網寺第25世信彗撰」とその由来が誌されてあります。
 本廟跡の一部は昭和49年(1974年)県道拡幅工事前に発掘調査されたが、中世の火葬墓が発掘され遺物の中に火葬骨・鉄製刀子・土師器灯明皿片・開元通宝(唐の銅貨)などが発見された。特に鎌倉時代の中国通貨と火葬墓(火葬骨を含む)の発見は本廟跡を立証する足るものであります。
如信清水の碑
如信清水の碑
 近くに清水が湧き出ているが、如信上人はここの清水で炊飯したという記念碑である。

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