棚倉町勢要覧 -021/034page
棚倉城が造られる前は、赤館の館が建ち、この地を治めていました。そして、伊達氏(宮城県)・佐竹氏(茨城県)と 白川結城氏などの攻防が続き、最後は佐竹氏が棚倉地方を支配することとなりました。徳川が天下統一すると棚倉は天領となり、 佐竹氏は秋田に移されて、棚倉地方は北九州の立花氏が、初代領主として入ります。以降、明治までの間、八家一六代の殿様が 棚倉の城下を治めました。
初代城主
丹羽氏
(一六二二〜一六二七)
赤館に居城した立花氏の次に棚倉を入った丹羽長重は、元名八年(一六二二)、棚倉藩五万石の領主となる。
寛永元年(一六二四)、幕府の命令により、この地にあった近津明神(馬場都々古分氣神社)を馬場に移して、棚倉城を築き 初代城主となる。同年四年、築城途中で隣の白河へ移り、白河城城の大修築を完成した。
二〜四代城主
内藤氏
(一六二七〜一七〇五)
信照、信良、弐信の3代が藩主を勤め、七八年にわたる支配で、その後の棚倉藩政の基礎を確立した。信照は、丹羽氏から引 き継いで棚倉城郭の完成を進め、城下町の整備、社寺の保護に力を注ぎ、城下は経済の中心地として発達した。信良、弐信らに より、市坂に愛敬稲荷神社、蓮花寺境内に常念仏堂と三十三観音堂を寄進、宇迦神社の拝殿の再建なども行われた。
五代城主
太田氏
(一七〇五〜一七二八)
宝永二年(一七〇五)、太田資晴が駿河田中より五万三七石余で城主となる。宝永四年、花園に日蓮宗高徳山長久寺を創建し、 棚倉城の南門を移して山門とする。これが唯一、現存する棚倉城の建物になる。 享保十三年(一七二八)、上野館林(群馬県)に移る。
六代城主
松平氏
(一七二八〜一七四六)
享保三年(一七二八)、上野館林より五万四〇〇〇石で城主となる。同年、五万五〇〇〇石の寺社奉行となり、延享三年 (一七四六)、館林に帰城し老中職につく。同年、蓮花寺に大仏を寄進している。
馬場都都古和氣神社が所蔵する「赤糸威鎧残闕」(国指定重要文化財)を復元したもの「福島県立博物館提供」数々の歴史的逸話を背景に、 八つの大名家が入れ替わり歴任。 城下町、・棚倉の歴史と文化を 育んできました。
七〜九代城主
小笠原氏
(一七四六〜一八一七)
長恭・長堯・長昌の三代にわたり七一年間、棚倉城の歴史上二番目に長く支配した。
長恭は延享三年(一七四六)、七歳で遠江掛川(静岡県)より棚倉城主となり、近江(滋賀県)二万石と棚倉の四万石を治めた。 長堯は安永四年(一七七六)一七歳で城主となった。松平氏の代で塙代官支配の天領となった城付領地が領地替えを受け、 ほぼもとの棚倉領に戻る。その後、家督を受け継いだ長昌は、文化九年(一八一二)城主を継いだが、一四年、肥前唐津 (佐賀県)に転封となった。
一〇〜一一代城主
井上氏
(一八一七〜一八三六)
正甫・正春の親子二代にわたり治めた。
文化一四年、遠江浜松(静岡県)より六万石で正甫は城主となるが、病気と称して一度も棚倉の地を踏むことはなかったという。 二代目正春は、文政三年(一八二〇)、十五歳で城主となる。天保五年(一八三四)寺社奉行となり、天保七年、上州館林 (群馬県)へ転封となった。
一二〜一五代城主
松平氏
(一八三六〜一八六六)
石見浜田(島根県)より康爵が六万四〇〇石で城主となってから、康圭・康泰・康英の三代、三〇年間支配された。 嘉永七年(一八五四)、兄康爵の養子で城主となった康圭は、機織りや瓦焼、ナシ、こんにゃくなど殖産興業を奨励。康泰は、 文久二年より二年の藩主時代に天狗党鎮圧のため兵を出して功績を挙げた。続く康英の代では先代の功績もあり、禄高は八 万四〇〇余石となった。
一六代城主
阿部氏
(一八六六〜一八六八)
棚倉藩最後の藩主となる阿部正静は、白河より一〇万石で棚倉城主となる。翌慶応四年(一八六八)戊辰戦争が勃発し、 棚倉も一時は官軍の命令で出兵したが、東北の各藩と新潟が手を組んで官軍に立ち向かう奥羽越列藩同盟に入り、板垣退助率いる 官軍と白河城を中心に戦った。東北勢が次々と敗れるなか、棚倉城も官軍の総攻撃にあい、激しい攻防戦の末に落城、降伏した。 明治を迎えて、阿部氏は棚倉藩知事になった。