わたしたちの町 たなぐら-59/91page

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(2)農業の育成と開農社
明治のはじめころまでの棚倉地方は、農作物の生産量はあまり多くはなく、せき畑の面積は少ないうえ土地もやせていました。
だから農業の育成とその他の産業をさかんにしていくことは、大きな問題でした。このことについて、きょう土の人びとの努力としてあげられるものに、石澤寛助さんを中心とした開農社の仕事があります。
開農社のれきし
・明治10年5月(1877年) 石澤寛助さんたちが、農業をさかんにすることを目的に開農社という団体を作った。
・明治11年8月(1878年) 県の認可をえて活動をはじめた。
いねの病気の予防法・ニンジンの作り方など経験をもとに良いと思われる方法を発表した。
・明治13年9月(1880年) さとうもろこしの作り方およびさとうの製造とお茶の葉の審査会を開いた。
・明治18年11月(1885年) こくもつ・野菜・くだものなどの品評会を開く。
・明治23年(1890年) 稲づくりの改良、くわの木の植えつけ、かいこ、たんばぐりの試し植えなどに努力した。
(3)農業などの改良と郵便・教育・鉄道事業
明治から大正のはじめまでに、棚倉町の農業・郵便・教育・鉄道の基礎ができ、現在のように発展してきました。
このように発展するまでには、多くの人たちの努力があったからです。その中でも、特に力をつくした人物に石澤寛助氏があげられます。
●つぎの年表からは、石澤寛助さんの仕事のあとがわかります。

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