わたしたちの町 たなぐら-60/91page
▲石澤寛助さん
長男寛一さんらが寛助さんらの仕事を一冊の本にまとめたもの
石澤寛助さんの年表
弘化元年(1844年) 東白川郡伊野上村(現棚倉町)の大庄屋(酒づくり)佐川弥助さんの三男として生まれたた。
明治2年(1869年) 伊野上村の石澤吉左衛門さんの養子となる。
明治3年(1870年) 「生益組」をつくる。
上台の国の土地60ヘクタールを払い下げて開たくし、生活の向上をはかった。
「馬場都々古別神社の仁王像」を移した。
明治維新の神仏分離によって起こった、仏教破壊から像を守るため長久寺に移した。
明治4年(1871年) 「玉露堰の改修」をする。
社川に設けられた玉野堰は、毎年のように大雨のとき破壊され、また普通は水量が少なく、しばしば日照りに見舞われるために、上流に新しい堰をつくり、社川・棚倉流域の田を潤した。
明治10年(1877年) 「開農社」をつくる。
会員18名の社長となり、明治11年に県の許可を得て、唯一の民間農業指導機関をつくった。
明治16年(1883年) 寛助さんら4名の意見により、白河街道を上台坂から風呂ヶ沢に移した。
明治22年(1889年) 棚倉郵便電信電話局長になる。
明治25年(1892年) 「棚倉神農会」をつくる。
会員1,147で馬場都々古別神社において、農産物品評会