わたしたちの町 たなぐら-61/91page
を開いた。棚倉町以外の町・村からも多数参加した。同時に農業についての集会なども開いた。また、牛乳の普及、誘蛾灯での害虫駆除など農村の発展や農業技術の指導にも力をそそいだ。
のちに棚倉神農会と開農社が合併する。
明治33年(1900年) 「私立東北白毫学院」をつくる。
園部日敬長久寺住職のよびかけにより、寛助さんら5名が賛成し、鹿子山に男子中等学校をつくった。のち明治41年に東白川郡立農蚕学校となる。
明治37年(1904年) 還暦の記念に友人と力をあわせ、棚倉町の城跡と赤舘山それに矢祭町の矢祭山にさくらを植えた。
現在も春には、美しい花をさかせている。
明治41年(1908年) 棚倉郵便電信電話局長の役職を長男寛一さんに譲る。
明治44年(1911年) 「白棚鉄道をつくることを申請」した。
寛助さんら46名が連名で申請する。大正2年(1913年)には、白棚鉄道をつくる許可がおり、その測量や設計がはじまった。
大正2年2月11日(1913年) 人びとから惜しまれて、69歳でなくなった。
〔役職暦〕県農商工諮問会員・県勧業諮問会員・郡勧業委員・県勧業通信委員・県第一回勧業諮問委員・大日本武徳会支部評議員・棚倉町議会議員など、多くの役を勤めた。
〔表彰〕
駅逓局長彰・有栖川親王殿下表彰・県表彰・正八位瑞宝章授賞・大日本農会名誉賞状・大日本農会緑白綾有功賞など、功績が認められ数多く表彰をされた。
農作物の種などを、はがきに書いて注文した。
大正時代当時の郵便局
(現在の高田油店の向かいにあった)
大日本農会緑白綬有功賞