塙町の文化財 -052/105page

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コラム

塙町ゆかりの人々(その一)

●宥善

 宥善上人と称され、米山山頂に薬師尊の山寺を開山し、それ以前の山岳修行所と見られた山寺を、江戸時代を通して、地方きっての霊山、霊所とする基礎づくりをし、その後、数多(あまた)の信仰者を集め中興の祖とされた。

 亡くなられて百余年後、台宿に壮大な薬師堂が建立されるほどの遺徳で、毎年の春の祭礼や夏の終りの八朔祭といった大衆のための信仰慣例を残す基礎をなした。又、その詳細が碑文として残るほどの著名な僧侶であった。

 その業績を追うと、当時のこの地方としては早い時期にその徳により塙の秦家から梵鐘の寄進を受け、米山山上より鳴り響かせたとある。その鐘銘(記録あり)は、宥善の作であり、又、その内容で、米山の由来を、遠く越後の米山薬師に求め、同じ内容としていることからも立派な学僧であったことがうかがえる。

 当時の檀家制による寺院の維持ではなく、ひたすらの修行寺として、その生涯を山頂で布教教化に過ごす生活をし、晩年には、真言密教の教旨に従い、入定を果たしており、後世にその影響を残している。その神秘的な遺徳が、前記のような追慕事業となり、信仰山寺として、その名を遠近に拡大した。

 その入定は貞享二年(一六八五)八月廿一日、六十二歳とある。

●秦治右ヱ門

 秦なる姓は、上代の秦(はた)氏や秦野氏を思わせるが、塙では何時の頃からなのか、その資料がない。

 その祖と思われる方に、「秦左衛門尉殿」とした八槻文書(応永三年 一三七〇)にあり、又明治四十年代の初め、塙の耕地整理に際し、所有地より近世以前の武具、装具などが出土し、早くより塙の開発に当たっていたようである。

 徳川初期、地代官に秦治右ヱ門の記録があり、棚倉の立花宗茂が、元和五年(一六一九)柳川へ転封、次の丹羽長重が封ぜられる同八年までの三年間就任している。そのほかそれ以前の慶長十一年立花領以外の幕領を支配したとすることや、更には元和元年大坂役後、幕臣河西夕雲なる方と共に、棚倉領外の代官を勤めたとする記事もあり、丹羽氏の移封後も、寛永四年(一六二七)、次の内藤氏の転入 まで塙に在任のまま南郷の代官を勤めたこともあるほど、幕府初期の地方行政にあたった人物であり、それを証する幕閣よりの贈物の文書もある。以後累代治右ヱ門を称し、塙三村の庄屋・名主を勤め、代官陣屋設置後は、年番名主の顧問役として行政に関与し、又、後期の社寺への寄進・造営などに尽くされた方も出ている。


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