塙町の文化財 -051/105page
素朴な技法構造を示す。しかし作風には地方的な素朴さはみられず、お顔や衣などをきちんと彫っている。湯舟観音堂聖観音坐像ほどではないが、面長なお顔には厳しさがうかがえる。側面では体の奥行もあり、体躯や脚部をめぐる衣の襞は、太く、ゆったりと彫出され、南北朝時代の仏像にみられるような表現ももっている。しかし背面は、かなり簡略化されており、実際につくられたのは室町時代に入るであろう。
二十一、木造薬師如来坐像
鎌倉時代
下植田薬師堂 大字植田字下植田
像高(現状) 八八・八cm
割矧造 彫眼 彩色この像は、割矧造(わりはぎづくり)という技法でつくられている。すなわち頭体の大部分を一材で彫出し、その後に体側を通る線で前後に割り離し、像内を刳り抜いている。さらに脚部は、横に一材を矧いでいる。脚部、両肘より先は、すべて後に補われたもので、結局、頭体の中心部のみが当初のものである。破 損がひどく、頭部や首、腰のあたりはすべて腐って一部失われている。
衣の表現には穏やかさがみられるが、幅広の顔貌、胸部の肉取には緊張感があり、鎌倉時代に入ってつくられたものと考えられる。保存状態は悪いが、今のところこの像は、塙町では最古の遺品といえる。
この像は、旧常福寺の本尊と伝えている。常福寺は真言宗の大寺であったようであるが、明治十三年に廃されてしまった。そしてこの寺と隣接してあった教広寺という時宗(じしゅう)の寺(明治初年に廃される)の跡地に一堂を建て、そこにこの像以下の常福寺の諸像を移したのである。それが現在の下植田薬師堂であるが、この堂もかなり荒廃している。
(福島県立博物館学芸員 若林 繁)