塙町の文化財 -062/105page
内陣通りは腰高の祭壇を造作し、来迎柱間の厨子には薬師如来を祀る。
本来この堂は、現在地の北方約一・五キロメートルの米山山上にあった米山薬師堂の御仮屋として建立されたものと伝えられている。手狭な山上と小さな堂では祭礼行事(例年四月)に不適当のため、薬師如来像をそのつどこの地に運んで祭礼を施すために建立されたという。いわば仮の祭礼堂だったもので、現存の遺構は旧領内宝坂村名主源蔵の日記の記述によると寛政二年(一七九〇)の建替えと判明している。天井の造作が省略されたのも、したがって仮屋のためであったろうし、四天柱前通りの組物の一部にも後年の造作が含まれているらしい。
御仮屋として発足しながらこれほど雄大かつ入念な工事の堂宇は珍らしいが、現在はこの堂に仏像を搬入する毎年の祭礼行事は廃れ(山上の薬師堂そのものは伝わっているというが)、それと別の像を安置する薬師堂としての独立的存在に変っている。
十一、薬王寺薬師堂仏輿
所在 大字台宿字大久保
製作 江戸後期
方一間(間口真々一・00メートル、奥行真々〇・九〇メートル)、宝形造り、 木瓦葺き、軒高一・四〇メートル、棟高一・五〇メートル。前出の薬王寺薬師堂奥の祭壇隅に安置保存されている小型の厨子風の道具である。
井桁の土台上に建つ四隅の円柱をはじめ横板張りの壁、緩勾配の屋根瓦、一枚板の両開き扉などすべて欅材が用いられ、軒は円柱上の丹肘木のみで垂木を省き、内側には装飾を一切付していない。
四隅の円柱側面の下端近くには、強固な鉄環がそれぞれ取付けられている(うち、二個破損紛失)のは特色的で、両側面各二個の鉄環にそれぞれ棒を通すことにより、この道具が仏輿として使用されたことは十分に想定される。
とくにその記録や口伝は残されてはいないが、この道具を保存する薬師堂(もと、御仮屋)と米山山上の薬師堂との関係を考慮すれば、ある時期これが山上の薬師如来像を担ぎ運ぶために使用された可能性はきわめて大きい。
なお、現在は厨子代わりとして別の焼仏が収納されている。
(東北工業大学教授 草野和夫)