塙町の文化財 -061/105page
後は本尊の十一面観音像とともに専らこの古宿集落が管理して今日に至ったという。したがって、由緒とうの記録は全く保存されなかったらしい。
この堂の現状の各部のうち、高欄を付さない四周の切目縁をはじめ、一重の疎垂木の軒、堂内の垂木を表わした化粧屋根裏、拭板敷きの現存の床などは明らかに後年の改造または修補である。一方、礎石および円柱をはじめとする軸組(竪板壁を除く)、平三つ斗の軒組や台輪の部分、中備の蓑束、堂内の四天柱とその組物などは建立時の古式を残している。
察するに、簡素ながら禅宗様の細部をよく踏襲した仏堂の、雨漏り破損による後年の大修理にあたって、桁から上部の小屋組などを旧手法に合わせないで工事を実施したものであろう。床も既存の床の六センチメートルほど上に張り重ねられている。
外陣中央にわずかに打上げる鏡板張り天井の絵には、寛保二年(一七四二)の賛が見えるから、この天井の新旧は別としても、原形部分の建立はこれ以前であることは確かである。
十、薬王寺薬師堂
所在 大字台宿字大久保
建立 寛政二年(一七九〇)
方三間(間口九・三〇メートル、奥行八・五〇メートル)、宝形造り、茅葺き。医王院米山薬王寺は、町の西方を南北に通る旧街道西側に位置して、南北朝時代頃の創立と伝える真言宗の寺院である。
薬師堂は寺域の北端に東面して建つ方三間の雄大な堂宇で、前方一間通りを吹き放って板敷きの向拝とする。
軸部は円柱であるが前通りには建具に合せて八角柱も用いられ、正面三間を除く三方は板欠りを設けた厚い横板壁で閉じられる。二重の疎垂木の軒は、出三つ斗の軒組で支えられ、中備も同じ出組、頭貫上には台輸を回すなど、禅宗様でもやや入念な工事によっている。
堂内のうち、外陣は畳敷き(もと、拭板敷き)、内陣は拭板敷きでともに天井は設けられず、また、化粧屋根裏の形式も採らないで小屋裏を表わしている。四天柱奥の