塙町の文化財 -064/105page

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塙町の遺跡・古墳

 塙町に確認された遺跡は、縄文時代中期から人々の足跡をとどめている。見晴しの良く、風当りの少く日当りの良い、そして水の豊かな、自然の動植物の確保に便利な所を選んでいる。縄文時代の人々は県内でも中期以降遺跡が大きく増加する。食糧の豊かさを示すという。すでに焼畑程度の耕作が行われたという。堅穴住居跡に住み打製石斧を使用し土を掘ることも行われたし、石錘を見ると久慈川で豊富な漁獲もさかんに行われ、石剣・独鈷石など土偶には、信仰の存在も推察することが出来る。衣類はすでに石鏃・石錐の存在も見られ鳥獣の皮利用と、アンペラ状の編物のあったことが初歩的な身体を覆った生活がうかがえる。死者を葬ったと思われる。羽原谷地出土の底に穴をあけた甕があり、宗教的な行為が あった。

 台宿地内に弥生時代に入り、米作りが伝えられて来たのであろう。棚倉式土器も見られたことと、そのあとに入る南御山二式の流れ、米づくりは支配者と被支配者、富の偏在をつくり出し身分が出来る。地方豪族となった人々の多くは、関東常陸・下野から新しい文化を持って来た人たちでもあった。四世紀ごろには日本に初めて豪族連合が畿内に発生し、支配圏を拡大して来た。関東から塙町附近に伝わるのに時間はかからなかった。日本武尊であり、味鉅高彦根命たちがそれであった。久慈川の谷間は文化の伝導路となったのである。高野・長流の官駅がおかれるまでには、賑やかな部落が八溝山系の久慈川沿いにあったであろう。伊香古墳群は六世紀ごろのものであろう。貴重な鉄斧の副葬も行った人もいた。朝日長者伝説は、高野郡の郡司たちの物語りでもあった。仏教も、神も人々と共にあった八溝嶺信仰、都々古和気信仰も厚かった。

 これら塙町の古代を物語る遺跡と遺物は外の町と同じく豊かである。陸奥の官道として、常にまっ先きに文化に浴した事実が、地に爪跡を残している。大事にしなければならない。埋もれた物言わぬ遺物が輝ける塙の原始・古代を語ってくれる。

東河内遺跡

(東河内字上人蒔田)

 久慈川の支流渡瀬川に流入する赤坂川北岸丘陵上に位置する。標高二八○メートル、丘陵突端部に南面する浸蝕台地上にある縄文時代の遺跡で、東西約八○メートル、南北五〇メートル、土偶、土器、石鏃、石斧、石錘、タタキ石などを出土している。土器文様は細線の平行沈線文、網目状撚糸文、雲形文、施文の太い沈線文が見られる。また雲形文には磨消手法が見い出せるものもあって、いずれも縄文晩期土器とおもわれる。遺構の構造、層位など明らかでないが、段丘上に位置し水も近く、狩猟生活を主とした縄文人にとっては、格好の生活条件をもった所であった。発見された土偶は板状のくずれた顔面のものであり、石鏃は有茎 のものが多く見い出されていた。現在は水田となっているため、散布状況は不詳。

羽原谷地遺跡

(湯岐字羽原谷地)

 昭和四十八年十二月、湯岐前より南へ通じる道路の拡張工事中に発見された、阿武隈山系のおだやかな丘陵の遺跡である。大


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