塙町の文化財 -068/105page

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高野里古墳

(伊香字高ノ平)

 昭和四十二年七月、山林を耕地に造成中に発見された遺跡である。八溝山地が東方に張り出した突端部にあり、北に伊香耕地、久慈川を隔てて塙町中心部に面した位置につくられていた古墳である。標高二〇八メートル。古代からの常陸道が丘陵下を南北に通じ、台宿南原・北原の遺跡を脚下に見おろし、東に接して高野神社は横穴古墳が本殿となっておるなど、歴史的景観と伝承をもっていた。

 古墳は河原石積みの横穴式石室、床面は河原石の礫でタタキ締められ、巨大な奥壁は使用されていない。積石の裏ごめは黄色粘土で丁寧になされ、玄室との境には大形の石を使われていた。内部高一メートル、長八メートル、巾一メートル、L字型につくられ東側に開口部があった。

 出土品は直刀二振り、まくり鍛、平棟作りが倒卵型の鍔があり、腐蝕甚だしかった。八九センチと一・〇一七メートルの長さがあった。この刀は側壁に接し直立したままに置かれていた。床面から鉄鏃・鉄斧が出土した。鉄斧は両端を折り曲げ袋部がつくられていた。土器片二片他に遺物は見い出せなかった。調査時すでに古墳は崩壊されていたためでもあった。

台宿南原遺跡

(台宿字南原)

 塙町中心部の久慈川をはさんで対岸の南原、北原集落の人々は、現在遺跡の上で生活をしている。久慈川沿岸の河岸段丘は、古くから肥沃の地として開発されていたのである。この遺跡は、縄文、弥生、古墳、土師、須恵器などを包合する複合遺跡である。ここも正式な発掘調査は行なわれていない耕作中の出土遺跡であるが、久慈川西岸の北原台地まで、塙町の原始、古代期の歴史を秘めた遺跡であることは間違いない。

植田遺跡

(植田字坂ノ下)

 八溝山系を横切る中山峠山塊が久慈川にのぞむ坂ノ下の集落で確認されている。性格等は明らかではない。

真名畑宮田遺跡

(真名畑字宮田)

 八溝川と鎌田川が合流する折戸の河岸丘上にある遺跡で、縄文後期から晩期の出土品が、耕作中偶然発見された。

塙の城と館

 塙町および東白川郡で、城と称しているものはきわめて少ない。白河小峯城・棚倉城など近世の城を除くと、そのほとんどが館(たて)と呼ばれている。町史で個別の館趾を図示しているので、それを見れば一目瞭然であるが、いずれも(平館などの例外はあるが)、立派な山城ばかりである。館は、ヤカタといって、城とりわけ山城や平山城・丘城とは区別されている。館は方形館趾に代表されるように、平地や谷間の屋敷を中心とした農耕経営の拠点的な構えであり、生活用 の城館(じようかん)趾を一般にはいう。関東から西においては館はタテとは決して読まずヤカタであり、東北にいう館とは別個な状況を意味する。タテというのは、何もこの塙町や白河辺りの地方のみならず、福島県はもとよ


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