塙町の文化財 -069/105page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

り東北地方から北海道にかけての城に対する同意の語として使用され、一般化している。

 では、実際に廃城前、すなわち戦国期・中世においても館といったのかというと、そうではないのである。四ヵ城に関する普請の文書では、「四ヶ城之城領」とはっきりと赤館、羽黒、寺山、東館は城と佐竹氏は呼んでおり、天正六年(一五七八)と推定される「岩城常隆感状」資料九九号には「羽黒之城代越前方」とか「羽黒之城主越前方」とみえ、羽黒山は城として呼ばれており、永録十三年(一五六九)の壁(神部)氏宛の佐竹義重判物では「寺山之地在城」として寺山も城と呼んでいる。このような例は、県下においても枚挙にいとまないのであり、少なくともある時代−おそらくは近世中期以降−に本来、城と呼んでいた状況を(少なくとも関東地方に近い地方で)館という起称で統一したためであろう。城 をタテとしていうのは「長福楯」にみえるごとく、楯すなわち、防壁機能という城本来の定義に見合う楯の名称から由来するとも思われる。しかし、統一的に本来、城というべきところを館といったのは、近世の地誌類である「会津風土記」や「白河古事考」、「棚倉沿革私考」による記述に由来すると思われるのである。少なくとも塙町周辺の城趾は、東北地方の城館趾のうちで、最も関東的な構成をなし、その遺構からいっても佐竹氏の築城法によるものばかりである。従って、館とは、廃城後、まもなく経た時代で本来城といわれた地が館と呼ばれるようになったとみるべきであろう。本書では羽黒館という名称はふさわしくない。近世末あたりからの起称であるので、羽黒山という呼び名に従って、「羽黒山城」 とあえて記載する次第である。なお、史料からの起称に従うと「羽黒城」というべきであるが、羽黒城は県下はもとより全国的に夥しい城名であるので、羽黒山城とした。

○ 城館趾の特色
 塙町とその周辺の城館比の特色を、その構造、分布からいうならば、次の諸点に集約できる。

  1. 山城としてのプラン(縄張と削平地・堀等の配備状況)が、階郭式といって、階段状に形成する。羽黒山城、寺山城、金井館、孤屋館等にみられる通り、並郭・連郭式の縄張が少なく、山の斜面を削平して、曲輪を階段状に中腹もしくは麓から山頂にむかって連ね重ねている。(東館は、このプランではない)
  2. 山城に空堀利用が比較的少なく、堀の形式は「堀切」といって、屋根筋を断ち切る形で、数状にわたり穿たれる山城が多い。これは、塙地区の山城立地の地勢が、痩せ屋根を利用していることに起因する。
  3. 久慈川沿いの城館趾が、一城で成立するのではなく、赤館、羽黒山、寺山、東館を核として、支城制がひかれ、個々の城が他城との連携の中でそれぞれ機能(防備の方向、伝達機能の役割)を有したこと。
  4. 鎌倉期から室町中期にかけてと思われる館(やかた)が多数存在したと思われ、多くの長者屋敷伝承があること。
  5. 旧塙町を中心とした久慈川沿いの山城が、全国的にみてもそのほとんどが保存状 況が極めてよいこと。
など以上の諸点となろう。この地方の地理的な面をみれば、関東と東北の接点であり、いわゆる関東風の築城形態(丘陵上の占地など)と、東北特有の築城形態(比較的個々の曲輪面積が大きく、戦闘面より居住面を重視する)とが混じりあった状況を反映しているともいえよう。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は塙町教育委員会に帰属します。
塙町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。