塙町の文化財 -078/105page

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コラム

塙町ゆかりの人々(その二)

● 寺酉重次郎封元

 田沼時代の後を受け、引締めの寛政の治へ協力し、ここ塙の陣屋へ在住のまま、長期間(寛政四年一七九二〜文政十年一八二七)、この地方の行政に当り、民力向上へ尽した寺西代官は、江戸時代珍らしい代官の一人であろう。

 その業績は、農村人口の増加・荒地の防止回復生産向上とした当時の緊急施策であり、人心引締めによる社会風潮の刷新であり、時勢に反した容易ならざる行政であった。これは保守的改革であるが禁止と節約が強制され、住民の意に反したものであった。その推進に当る属僚は、少数且つ旧例になじむ俗吏であり、寺西行政の批判を買う悪徳下僚も出たことや又一面には、当時までの代官は、数年交替の腰掛行政で陣屋に在住することも稀で江戸詰めが主のために長期推進の行政は行われ難く、住民も、それに慣らされての対応ではなかったか。且つ寺西の施策は、ただ自領内のこととせずに周辺十一藩の領主と協議し、広域一体とした革新を目ざしたことは、一歩進んだ行政である。しかしこれらのことは、桑折領内へ赴任に際し、就任拒否の理由とされた程であるが、後に了解され死去するまで通算三十有五年間の勤務であった。その治績詳論に甲乙あるも、その没後、相馬を旅行した水戸学者の小宮山楓軒は、その治績としたものを確かめ、賞讃しているし、又当時の八槻別当の八槻孝良が、随筆集にその布令の実際に表裏あり、 実行されない数々の事例をあげられ、又、下僚の収賄事実等を書かれ、公金の取扱いに、公正を欠いた事情を書き残されているが、これは、当時の社会実情の表裏を突いた記録である。

 明治の「沿革私考」の著者石井可汲は、「誕育家」の碑文について、その成績は思いの外ではとし、売名の疑もあり、その善政としたものに表裏があり、実施の手段にも誤があったとし乍らも、治績としたことも事実であり、責めるには悔が残る、と書かれてある。

 そのことの一つに、桑折への離任に際して、塙住民から、功績を称え、留任の願書が出されており、支配地内には、生祠とし祭神ともされた程である。

● 交通運輸業に当たった人々

 近世の交通運輸としては、正規の宿駅制度の敷かれた旧水戸街道筋はともかく、そのほかには常北の平潟港より阿武隈山地を越え、ここ塙・棚倉への交通運輸の道があり、その沿道筋の人達により輸送事業が行われたことである。その問屋に当たる差配をされた方々もあったればこそ、と思われる。

 その道筋の常世中野の荒川家には、その業に当たられた方があり、天保の頃の荒川彦惣なる人も、その一人であり、天保八年、その地の観音堂(現常世観音堂の前身)焼失後に、その再建事業を果たされ、貴重な古仏の本尊仏、如意輪観音を今日へ伝え残されている。


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