塙町の文化財 -084/105page

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コラム

塙町ゆかりの人々(その三)

● 特殊産業に携わった人々

 町内の上石井には、早くより石川三家・後二家(累代文左エ門・忠兵衛を名乗る)協力して梵鐘の鋳物業を開拓し、この地方の社寺へ、大小の梵鐘を奉納してきた文献がある。

 その祖と思われることに、石川静阿弥なる方は、天文七年(一五三八)十月、八溝山下の一坊に、梵鐘を納めたとする史料がある。(白河古事考)

 近世に入っては、各技術保持者の統制が敷かれ、允許状が発行されたが、石川家では累代京都の允許元の免状を得て、その業を受けつぎ、その製造に当っている。

 近代へ入っては、大正六年米山梵鐘の改鋳を行っている。

 又同書(白河古事考)によれば、如何なる条件に依ったことか、中世末、近藤治部大輔なる者、武士をやめ、台宿阿伽沢(伊香に赤沢あるも台宿境の関沢の誤りとされる)にて、鍛治業を創始したとある。このことあってか、近世には町内の赤坂・川上・前田等に鍛造の特殊産業が受けつがれ、農具製造が盛んに行われている。

 その素材としたものは、平潟港より運ばれ、それを鍛造して農具・特に鍬類の製造で名を挙げ、その筋の専売許可を得て近県へ搬出名声を得て、富裕者となった。又、社会事業や社寺への奉献も行われた。今に残るものに前田の鈴木家からは、その檀那寺の賢瑞院へ今日見る豪壮な須弥壇が寄進されてある。

● 医術・美術に活動した人々

一、医師緑川利賓

 幕末近い寛政の頃の人で、常世中野に住み、「医は仁術」の文字通り医療に尽くし、患者に貧困なる者あれば、無料にて治療に当り、住民より大いなる尊敬を受けていたが、向学心に燃え、京へ上り名医について修業中、病死してしまった。その徳たる水戸学の学者であり、能筆家であった立原翠軒をして弔文の筆を取らしめその弔魂碑は今常世観音堂の境内へ残されている。

 その妻は、常陸赤浜の長久保赤水−地誌学者として、著名な方の娘であったことから、この地へも来訪されたことが、川上の廃寺真福寺の梵鐘銘に書かれている。

二、画家荒川九渕と関口松宇

 荒川九渕は秋田に生れ、幕末この地へ移り来て住み、初め八槻家へ寄寓したが、後常世中野へ移り、荒川家へ入籍して、日本画を良くし、業とし、明治十年代まで活躍している。当地には、数少ない作家として、多くの作品を残された。

 関口松宇は、棚倉藩士であったが、明治維新後上石井上ノ原へ帰農している。画を能くし、作品を残されたが、湯舟観音堂の天井絵は、その手になる作品である。


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