体験学習の手引き -001/036page

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会津の風土と歴史

 会津は四方を山に囲まれた地域です。その山は東の奥羽(おうう)山脈、西の越後(えちご)山脈、南の帝釈(たいしゃく)山脈、 北の吾妻(あづま)山から飯豊山(いいでさん)に連なる山地帯です。これらの山地の雨水は、阿賀野川(あがのがわ)に集まり西流して 日本海へ注ぎます。会津の大部分はこの阿賀野川の流域範囲内にあります。会津盆地は会津全体 の中央北よりにあり、会津若松市(標高218m)は盆地の東南に位置しています。

 山は古くは信仰の対象とされ、また人々に用材・薪炭(しんたん)その他多くの山の産物を与えてきました が、会津には130余りの峠があり、他の地域との交流には山を越えねばならず、交通の障害にな りました。山地を源とする川の水は清浄で豊かであり、県内の他地域や他県に分水しています。

 会津盆地は、夏は気温が高く、冬は北西季節風が強く積雪もあるので寒さが厳しい地域です。 この土地と気象が会津の人々に豊かな生活を展開させる一方、また規制してきました。

 会津若松市は、東は猪苗代湖(いなわしろこ)の西岸から、西は会津盆地を北流する阿賀(あが)川(大川)の間に位置 し、市街地は背灸山地(せあぶりさんち)から流れる湯川と不動川の複合扇状地の上に作られています。

 ここの歴史は古く、市内からは旧石器が発掘されており、縄文・弥生時代を経て、4世紀には 堂ヶ作山(どうがさくやま)古墳、続いて大塚山古墳が作られました。このころ大和政権下に入り、その後東北の要 地としての役割を果たしてきました。奈良時代には条里制と推定される遺構や「会津嶺(あいづね)の国をさ 遠みあはなはば、しぬびにせもと紐(ひも)結ばさね」の歌が万葉集にあるのは、次第に中央の政権下で 開発が進められていることを物語っています。

 平安時代の初期、僧徳一(とくいつ)によって磐梯町に恵日寺(えにちじ)が開かれ、さらに湯川村の勝常寺(しょうじょうじ)には薬師像 などこのころの仏像がたくさん残されており、会津に仏教文化が栄えたことが分かります。

 武士の勢力が強くなり、源頼朝が奥州平泉の藤原氏を討った戦いの手柄により、会津は芦名氏(あしなし) などに与えられました。室町時代になり芦名直盛(なおもり)が会津に入り、至徳(しとく)元年(1384)鶴ヶ城の所に小 高木城を作ったといわれています。その子孫は他の武士たちを抑えて勢力を強くし、芦名盛氏(もりうじ)の ときには東北でも強い戦国大名になりましたが、その後、伊達政宗(だてまさむね)に攻められて天正17年(1589) 磐梯山麓の磨上原(すりあげはら)の戦いで敗れ、会津の中世を支配した芦名氏は滅びました。

 当時黒川と呼ばれていた若松に入った伊達政宗は、まもなく豊臣秀吉の奥州仕置(おうしゅうしおき)によって会津 を取り上げられ、天正18年蒲生氏郷(がもううじさと)が領主(42万石後に92万石)になりました。氏郷は町の名黒 川を若松と改め、天守閣をもつ鶴ヶ城や町割りをして城下町を作りました。また太閤検地をする など領内の政治を整え、漆器などの産業を興しました。その後に越後から上杉景勝(うえすぎかげかつ)(120万石)が 入り、会津とその周りの地方を支配しました。景勝は石田三成と組んで徳川家康を攻めようとし て神指城(こうざしじょう)を築きますが、関ヶ原の戦いに敗れたので会津を取り上げられ、その後に蒲生秀行(ひでゆき)(氏 郷の子60万石)が入りました。子の忠郷(たださと)の死亡で、会津には加藤嘉明(かとうよしあきら)(40万石)が入り、その子 明成(あきなり)は大地震で破損した鶴ヶ城を大改修しましたが、政治が乱れ40万石を返上しました。

 寛永20年(1643)徳川秀忠(ひでただ)の子、三代将軍家光の弟保科正之(23万石)が藩主になりました。朱(しゅ)


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