体験学習の手引き -002/036page

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子学(しがく)を学んだ正之は主君への忠誠を示す「家訓(かきん)十五ヶ条」や社倉法(しゃそうほう)(米を蓄えさせて貸す方法)、 殉死(じゅんし)の禁止のほか、慶安の検地で不当な年貢をなくするなどして、会津藩の基礎を固め、藩政を 整えました。一方ほとんど江戸にいた正之は、4代家綱の補佐役として幕政に参加、文治政治を 進めながら明暦の大火後の江戸の復輿、玉川上水の工事などにも努めました。

 3代正容(まさかた)から松平の姓を許され、御三家につぐ家門(かもん)の大名となりました。江戸中期になると藩 の出費が増え、農村は疲弊(ひへい)して寛延(かんえん)2年(1749)に一揆が起こりました。その後5代容頌(かたのぶ)のとき家 老田中玄宰(はるなか)が、農村の復輿・殖産興業(しょくさんこうぎょう)・軍制改革・学制改革による藩校日新館の設立などを行っ たので酒造・漆器(しっき)などの産業が盛んになり、農村も藩政も安定し力を蓄えて幕末を迎えました。

 安政5年(1858)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、安政の大獄後の文久2年(1862)に守護職を 引き受けた藩主容保(かたもり)は藩兵(はんべい)を率いて尊皇攘夷(そんのうじょうい)で騒がしい京都に乗り込み、孝明天皇の信頼を得、 公武合体の立場で治安の維持に努めました。長州征伐、薩長(さっちょう)同盟の成立、孝明天皇の死去で倒幕 派(とうばくは)の薩長勢力が強くなり、大政奉還後その理不尽を訴えようとして鳥羽伏見の戦いが超こり、戊 辰戦争(ぼしんせんそう)になりました。慶応4年(1868)のことです。江戸開城後、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が結ばれて県内 と越後で戦った後、西軍は8月23日城下に進攻しました。白虎隊の自刃(じじん)はこの時です。城下での 激戦と籠城(ろうじょう)は1ヵ月に及び9月23日容保は白旗を掲げて開城しました。その後藩士たちは塩川、 猪苗代に移され、のち、下北半島に斗南藩(となみはん)として再興を許されました。明治2年(1869)会津は若 松県となり、同9年には福島県に合併しました。明治32年には市制施行、鉄道の開通があり、会 津地方の中核都市として発展し、今日に至っています。

 会津は、秀吉の天下続一、近世から近代への戊辰戦争など日本の歴史の変革期に登場してきた ところに持色が見られます。

 会津の人々は、山と峠、暑い夏、寒くて長い冬の中での生活、また幕府側を代表して敗戦の苦 労を経験しましたので、堪え忍ぶがまん強い心が養われ、また「ならぬことはならぬ」、正しいこ とには筋を通すという気賀があります。それは「坊ちゃん」の「山嵐」に表されております。会 津若松の人は地味で口数(くちかず)が少ないのでよそから来た人に一見無愛想(いっけんぷあいそう)なので初めは交際しにくいと 言われます。しかし少したつと親切で思いやりの心があるのでよい友達になり、会津の地を離れ 難いと言われています。厳しい自然と歴史の中で耐えてきたので、会津にはこのような心が育っ たものと思われます。

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