体験学習の手引き -018/036page

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から長い舌を出した唐人武者の兜に、鬼がかみついている勇壮(ゆうそう)な絵が描かれています。

 べろくん出しの描法(びょうほう)は、自由奔放(じゆうほんぽう)で、色は朱.と墨、黄と僅かな青という単純明快(たんじゅんめいかい)なも のです。見た目には、他の凧のようにはなやかでもないし整ってもいません。けれども いったん大空高く舞い上がると、命を吹き込まれたかのように生彩(せいさい)を帯びてくるから不 思議なのです。青空を背景としてくっきり浮かんでいるところも良いし、吹き荒れてい る空に荒縄(あらなわ)の尻尾(しっぽ)をなびかせて右に左に動き回るところはすさまじく、また、いたまし く感じるときもあります。会津唐人凧は空に浮かんではじめて凄味(すごみ)を帯びてくる、まこ とに不思議なデザインなのです。

  大きさは、大きなもので縦6メートル、一般的なもので1メートル位あります。下 部(かぶ)が全長の約半分をしめているのが特徴です。

(3)凧合戦専用の凧
 明治維新当時15歳の少年だった井深梶之助(いぶかかじのすけ)(後の明治学院大学創立者)が語った思 い出話の資料によりますと、「会津では冬になると盛んに凧あげが行われた。奴(やっこ)凧、ま す凧、くらげ凧などもあったが、少年たちにもっとも愛好されたのは唐人凧であった。 この凧をあげるときは、細いわら縄の尾をつけ、空に舞い上がると鳴子(なるこ)がうなって、実 に壮快(そうかい)で、尾の先に刃物をつけたりしてけんかさせたものだった。凧合戦専用の勇まし い凧で、武士の子弟は、とくに唐人凧を愛好した。」と書かれています。

(4)唐人凧の由来
 唐人凧は、約400年前に大陸より長崎 へ伝えられたと言われています。その凧が どうして山国会津へ伝えらたのか謎(なぞ)とされ ています。

 蒲生氏郷(がもううじさと)が会津に持ち込んだという説が あります。氏郷はまぎれもなきキリシタン 大名で会津に漆器(しっき)や清酒(せいしゅ)など今日(こんにち)に伝わる 産業を起こしたばかりでなく、すぐれた知 識人として西欧文物(せいようぶんぶつ)も会津にもたらしたこ とから考えられました。

 次に会津藩の海外貿易を一手に引き受けていた長崎の豪商(ごうしょう)足立仁十郎(あだちにじゅうろう)説があります。 仁十郎はしばしば会津を訪れており、その際長崎土産(みやげ)として異国(いこく)の珍品奇品(ちんびんきひん)を運んだこ とは容易に想像されるからです。しかし、この二つの説とも定かではありません。

(5)唐人凧作り
 作り方は、最初に竹を使い、骨組みを作ります。唐人凧は長円形を組み合わせるため 手間がかかります。骨の結び目は糸で巻きます。次に和紙をのりづけし、最後に絵を描 きます。絵は墨で形を線描きしたあと染料(せんりょう)や顔料(がんりょう)で何度も色を重ねてゆきます。

絵付け作業
 絵付け作業


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