体験学習の手引き-018/033page

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角に簗田家(やなだけ)と倉田家があって、検断(けんだん)として商人をまとめ藩と町の仲介、町の自治などの役割を名主とともに務めていました。
 寛文6年(1666)、大町の職業は15種類、多いのは塗師(ぬりし)78、酒屋24、米屋15、材木屋14などでありました。現在も漆器商店の多いのは大町四ッ角の付近です。
 城下町特有の名のある町をあげて見ますと、蒲生氏郷が博労(ばくろう)(馬を売買する人)を多く居住させたので博労町、氏郷が日野から連れてきた者たちを置いたので日野町としましたが、加藤氏のとき改名した甲賀町、下級の武士を置いたので徒之町、知行(ちぎょう)100石の武士を10人住まわせ、合わせて1000石になるので千石町と名づけました。紺屋町(こうやまち)、鷹匠町(たかしょうまち)、材木町などはその職業を表した町名です。以上の多くは蒲生氏郷ころのものです。新住居表示で多くの旧町名が消えましたが、旧町名を記念して碑をたてた町もあります。また芦名時代にあった寺の名を町名にした町として天寧寺町(てんねいじまち)、融通寺町(ゆづうじまち)、桂林寺町(けいりんじまち)、善久町(ぜんきゅうまち)などもあります。
 氏郷が町制りをした時、郭内には興徳寺、恵倫寺(あとで移転)と諏方(すわ)神社だけを残して他の寺社を全部郭外の北部に移しました。その数は新設を含めて16ヵ寺になります。現在の行仁町から西へ城北町までの間に寺院が数多くあります。
 現在の市街地は戊辰戦争で郭内はすべて焼失し、郭外の町屋などでも明治以前のものは少なく、昔の風情を伝える家並みは少なくなっています。最近は都市の再開発と改築で、漆塗りの仕事をしていた土蔵や古くからの店なども新しいものになっています。
 江戸時代、会津には「本道五筋」とよばれる五つの主要街道があり、基点は大町礼の辻でした。東西に横切っていたのが二本松街道と越後街道です。会津若松から東、猪苗代を経て二本松へ通じた二本松街道、西の会津坂下・野沢(西会津町)を経て新潟県へ入った越後街道です。南北に縦断していたのが下野(しもつけ)街道(日光街道ともよばれた)と米沢街道です。下野街道は大内宿を通り田島を経て栃木県今市へ、米沢街道は塩川・桧原を経て米沢へと通じていました。もうひとつが猪苗代湖西岸から南岸を通って白河へ向かった白河街道です。二本松街道と越後街道は現在の国

旧桂林寺町

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