体験学習の手引き-017/033page

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城下の町並み

 若松城下の町並みは、文禄元年(1592)、蒲生氏郷によって作られました。芦名氏の黒川城のころは、武士と町人の家が雑居(ざつきょ)していましたが、氏神は黒川を若松の名に衰え、次のように町割りをしました。
 1.城の周りに土手を築いて堀を掘り、その内部を郭内(かくない)として内外を通す郭門を16設ける。
 2.郭内は武士、郭外は商人と蔵人の屋敷とし、寺院は郭外に移す。
 3.城下町のはずれに放宿をおく。
 4.大町その他に市を開く、ということでした。
 したがってできた町は、内堀に囲まれた城、外堀の中(郭内)の武家屋敷、外堀の外(郭外)の町人屋敷、社寺などの3つに分けられています。
 外堀を作るに当たって、氏郷は湯川を利用したといいます。芦名氏のころ東から流れてきた川は城の北を本流の車川が、城の南を湯川(羽黒川)が流れていたのを本流としました。この車川を外堀の一部に利用して外堀としています。土手と外堀にあった郭門は現在甲賀町口(こうがまちくち)、土手は花春町、堀は城南町十八蔵橋の所にしか残されていません。
 城下の道路は、ほぼ東西・南北に十字路につくられ、東西の道を丁(ちょう)、南北の道を通(とおり)と呼ばれました。郭内の城の正門である大手門のある北出丸に入る若松女子高前と裁判所の間の道は本一之丁と呼ばれ、裁判所の所に内藤家老、甲賀町通りをはさんで東に家老西郷頼母の屋敷がありました。この通りは大切なので幅が12間(約22m)の広さになっていました。そして北に本二之丁から本六之丁まであり、市役所北側の通りは本五之丁でした。城の西は本一之丁の南から米代一之丁から米代四之丁まであり、藩校日新館は西出丸の西にあたり米代一之丁と二之丁の間にありました。南北の通りは大手門から北へ向かうのが甲賀町郭門に続く甲賀町通りで、滝沢峠を経て白河街道に通ずる道路であり、戊辰戦争の開城の式は裁判所東のこの通りで行われました。郭内の道はすべて碁盤の目のような十字路につくられています。戊辰戦争の激戦で、ほとんど焼け尽くされたのでこの郭内に残っている江戸時代の建造物といえば、城と日新館の天文台の石垣、甲賀町郭門の石垣くらいです。
 郭外は町人の町で、道路はほぼ十字路ですが、南北の大町、馬場町の通りに交差する東西の道路は見通しがきかないように食い違いカギ型になっています。これは城下町の道路の特色です。
 郭外は商業と手工業の町として生産と交易の場でした。市で現在も続いているのが十日市(いち)です。年始めの市祭を正月十日に大町で行ってから、次の町で開かれていました。1日8日は馬場町、2と7は本郷町、4と9は桂林寺町、5と10は大町の他、三日町は3の日、六日町は6の日に開かれていました。
 町人町の中心は、郭内から移された大町でした。南北の大町と七日町の分かれる辻には高礼が立てられ札(ふだ)の辻(つじ)と呼ばれ、近世・近代を通じて若松の交通上の基点となっていました。この辻の

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