体験学習の手引き-020/033page

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若松城(鶴ヶ城)

 国史跡の若松城は地名を基にした正式の名称で、鶴ヶ城はその愛称です。この城のもとは、至徳元年(1384)芦名直盛がここに舘を建てたことに始まるといわれています。小高木城あるいは小高木舘と呼ばれ、芦名氏の居城となっていました。戦国時代になると堀と土手(どて)を備えた黒川城となり、城の周りに家臣と町人が入り混じって住む城下町をつくっていました。
 豊臣秀吉の奥州仕置で会津に入った蒲生氏郷は、文禄元年(1592)に築城を命令しました。黒川城のあった小高い所を本丸とし、城を内堀で、さらに土手と外堀で武家屋敷を囲み、町人を外にだしました。氏郷の城の縄張り(平面図)ははっきりしませんが、県立博物館のある三の丸から二の丸、そして廊下橋へと入るのが正門(大手門・追手門)でした。そして天守閣を見ながら帯郭(おびくるわ)を通って鉄門(くろがねもん)から本丸に入るようにしました。本丸内には政治をする書院、大名と家族が住むいわゆる御殿(ごてん)があったほか、東南隅には千利休の次男千少庵(せんしょうあん)が作ったと伝えられる茶室麟閣(りんかく)があり、この部分は風雅(ふうが)を楽しむ山里丸といわれるところであり、その北には珍しい楼閣建築の御三階もありました。
 天守閣は七層だったと伝えられています。当時を想像すると今の野面積(のづらつみ)の石垣の上に、下見板張の天守閣が立ち、最上層には勾欄(こうらん)(手すり)がついていたことでしょう。天守閣から走長屋・鉄門・干飯櫓(ほしいやぐら)につながる連結式であり、天守閣の周りに帯郭(おびくるわ)をもつのは秀吉の作った大坂城に似た縄張です。本丸に入ろうと帯郭に来た敵を天守閣の鉄砲狭間(ざま)から攻撃でき、また帯郭があるので二の丸から本丸を通らずに西や北の方へ抜けられるようになっています。
 氏郷は築城技術の発達した近幾地方から来た大名であり、旧領地から築城の技術者を連れてきたと考えられます。この城は慶長16年(1611)の大地震で、石垣は崩れ、塀櫓は落ち、天守閣は破損してしまいました。氏郷のころのもので現在残されているものは天守台の野面積の石垣と本丸北の石垣の一部だけと思われます。
 加藤嘉明の子明成は、寛永16年(1639)城の大改修を命じました。明成は父が連立式五層の天守閣の松山城を築いたので、築城の心得もあったでしょう。改修の主な点は次の4つです。
 1.天守閣を五層にしたこと。
 2.石垣を築き直したこと。
 3.馬出を改めて北出丸と西出丸を作ったこと。
 4.東にあった大手門を北にしたことです。
 まず天守閣は、野面積の天主台に外観五層、内部は穴蔵二階を含めて七階にし、最上階には氏郷の時のような勾欄を残しました。この天守閣の屋根は直線的でそりが少なく、各層の大きさが調和しており、四面に5つの張出を造って変化を与えています。全体を白いしっくい(壁)の総塗籠(そうぬりごめ)にしたので、鶴ヶ城の名にふさわしい近世的な城郭になりました。
 石垣は、芝土居(土手)であったのを石垣を多くしました。本丸の南・北・西は土手の上に石垣を築いた鉢巻石垣(はちまきいしがき)であり、本丸の東廊下橋の左右は水面から19m、この城で一番高く、扇の勾配とか、忍者落としなどといわれる立派な石垣です。また西出丸の西側も切込ハギの石垣が美し

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