体験学習の手引き-021/033page

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く揃っています。城の石垣の石は見える面よりも奥に長く、崩れないように積まれています。一番大きい石は椿坂をあがった太鼓門わきの遊女石で、この近くには大石が数多くあります。石垣をジグザグに作った横矢掛かりが本丸の南、月見櫓の西にあって、登って来る敵を射撃しやすくしています。また北出丸、西出丸の門には、階段状の大腰掛を築いて防備を堅くしました。
 周囲の石垣の上には塀をめぐらし、要所に石垣の張出を作り、その上に櫓を建てました。物見や防備、攻撃用の外、茶壷櫓(ちゃつぼやぐら)・お弓櫓・月見櫓・干飯櫓などにはその名の通りの役目もありました。そして本丸・帝都・北出丸・西出丸・二の丸の入口には頑丈な門がありました。現在は鉄門が復元されています。
 明成は馬出を大きくし守りの堅い出丸に改修しました。まず北出丸に大手門を造って甲賀町通りから入るようにし東と西に大腰掛・桝形・城門を造りました。西出丸の門も似たものですが、西の長い石垣は北半分を張り出させています。二の丸にも桝形・城門があり、北側の伏兵郭(梨子園)があります。ここは味方を隠しておいて二の丸に入った敵を攻撃したり、対岸の北出丸の大手門へ進む敵を攻めることができました。明成は蒲生の城を見違えるほど守りが堅く、美しい立派な近世城郭に大改修しました。
 近世の城は関ヶ原の戦い(1600)から元和の一国一城令(1615)までの間に多く造られ、築城技術も発達しました。鶴ヶ城はそれらの技術を踏まえて造られた新しい城であり、関東・東北では江戸城に次ぐ城であり、他にこれだけの石垣と天守閣をもつ城はありません。会津は、当時人口が多く、生産力も高かったからでしょう。会津の農民たちは、僅か50年の間に蒲生の城、上杉景勝の神指城、加藤明成の大改修と三つの大きな城を造りました。大変な労苦の連続だったと思いますが、またその底力をしのぶことができます。外様大名の明成は将軍が発令した武家諸法度の城の改築の許可制、新築の禁止のこと、それを無視してつぶされた大名のことをよく知っていたはずですが、幕府の許可も受けずに改修しました。明成はこのことと家臣堀主水との争いなどで40万石を返上します。新しい城には1.2年入ったでしょうか。幕府は出来上がるのを黙って見ていて3代将軍家光の弟の保科正之を鶴ヶ城の城主にしました。寛永20年(1643)のことです。
 鶴ヶ城はそれから225年後の戊辰戦争で群がる西軍と火砲に攻撃されて籠城1ヶ月、城内には一人の敵兵も入れませんでしたが開城しました。明治7年に取り壊され、荒城になっていましたが、昭和40年に明成が造った城をもとに復元されました。市内に移築されていた茶室麟閣は平成2年に元の位置に復元されました。加藤明成が40万石をかけて造らなかった

若松城

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