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太神楽には、神楽七芸といって7つの演目があり「長獅子」「曲芸」「おかめ」「万才」「神楽芝居」「あほう舞」「鐘■」がこれです。また、神楽に用いる楽器は、平太鼓、締太鼓、七孔の篠笛、三味線、鉦などです。
長獅子が家の中で舞っている時に、軒先では、曲芸や万才などを演じています。また獅子頭に頭をかんでもらうと頭痛やその他の病にかからないといって、すすんで獅子頭に頭をかんでもらう習慣もあります。太神楽は長獅子で悪魔をはらい、最後の鐘■の剣の舞は火伏せであり、この2つの舞は欠かすことができない舞とされています。
2.会津彼岸獅子
春の彼岸になると街の一員から笛の音が流れてきます。彼岸獅子の笛の音です。この笛の調は会津の人々にとって「雪にとざされた長い冬の生活から、もうすぐ解放される日の近い」ことを知らせる快い調べなのです。「春を告げる使者」として、会津の人々の生活の中に生き続けてきた春の風物詩なのです。彼岸獅子の獅子は、獅子頭を一人でかぶる「一人立ち獅子」で、男獅子2匹、女獅子1匹の3匹で舞う「風流の獅子」で東日本に広く分布しています。この風流の獅子は3匹で舞うことから一般に「三匹獅子」とよばれています。また、4匹、5匹、9匹、11匹など3匹以上の多数匹で舞うところもあります。これは3匹獅子の変化した風流の獅子です。会津の彼岸獅子も3匹獅子であるが、春の彼岸に舞われるところがら「彼岸獅子」の名で親しまれています。彼岸獅子の大部分は会津若松市周辺に分布しています。
会津の獅子舞がいつごろに入ってきたかについては、一般には会津藩祖の保科正之が寛永20年(1674)に出羽国最上から会津に移られたとき、獅子舞を先頭に入城した説、また、入城した際に長旅で疲れている藩士の士気を鼓舞するために獅子を舞わしたという説が伝えられています。しかし、本来は田畑を荒らす害虫を防ぐためと、悪疫を防ぐための祈願の舞であるといわれています。
戊辰戦争のおり、籠城した鶴ヶ城に日光口から引揚げてきた家老山川大蔵の一隊が小松獅子舞を先頭に通りばやしを奏でながら、西軍の包囲の中央を堂々と突破したという信じられないような話も残っています。舞い踊る3匹の獅子は、勇猛な面がまえで見るものを圧倒します。だが獅子の舞うその姿がまるで遅かった会津の春を喜び嬉々としてたわむれているように見えるのは………会津人独得の感じなのかもしれません。かって30教組を数えた彼岸獅子は、昭和40年前後にとだえ、現在継承されているのは会津若松市内では天寧、神指、居合の三ヵ所の彼岸獅子だけです。名称も所在地の地名を付けて呼んでいます。毎年春の彼岸3月18日から24日の7日間、新仏の供養
下居合彼岸獅子
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