北会津村の文化財第23集 -008/027page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

思い堀 II            小 森 五 良

主として管理運営について

 思い堀(岩崎堰)は、文化6年(1809)編集の「新編会津風土記」 によれば次のように記され、次の頁に示すとおりである。

 まず、本郷村の岩崎山北麓で鶴沼川(現在の大川) から引かれ、田地 の養水として本郷村を通り、上米塚村を始め、下小松村、両堂村、柏原 村、下米塚村、中荒井村、下荒井村、中里村を経由していた。さらに真 渡村の村西にて二派となり、一派は、端村鈴淵の東を過ぎ河沼郡牛沢組 上茅津村の方に注ぎ、牛沢組坂下組諸村の養水となった。もう一派は、 鈴淵の西を過ぎ富川村に入った。また、富川堰は村の東北に流れる鶴沼 川(現在の大川) から引かれ、塚原村の方に注いでいた。さらに樋は、 鈴淵の北で思い堀に架していたが、縦横十字のようであり、よって十文 字樋と名づけられた。上樋は、長さ六間幅四尺鈴淵の東を流れるものを 受けて上茅津村の方に注ぎ、下樋は、長さ八間幅一間鈴淵の西を流れる ものを受けて富川堰に入っていた。と記してある。

 また、この時代より150〇年ほど前の寛文5年(1665) の中荒井 組土地帳の「書上げ帳写し」 によれば、中荒井村の堰については、次の ように記されている。「小俣川は村の東54間に有、幅七間、源は村 の東南十里上、向羽黒山の麓大川より出る。名づけて思い堀と云う。西 北へ流れて宗印町村、上米塚新田、小松村、二堂村、柏原村を経て下米 塚村に至って同郡荒川堰と合うに水合して北へ流れて、中荒井村に至っ て小俣川と云う。又西北に流れて中里村を経て鈴淵村に至って瀧川と云 う。是より西へ流れて上海津村に至って渋川と名づく、又西北に流れて 中海津村を経て福原新田村下にて鶴沼川に入る。向羽黒山の水口より村 数二十五箇村、高八千八百石余の民家並田の用水となる。此堰は毎年三・ 四月に至って石土手五十間或は六十間に普請す」

 なお以上の地名については原文のままである。

新編会津風土記

 以上のように、この堰は非常に長大なものであり、橋爪組、中荒井組、 坂下組、牛沢組の四組二十八か村の田圃などの灌漑用水や生活用水とし て非常に重要な水路であった。それだけに、その維持管理には非常に困 難な点が多かった。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は北会津村教育委員会に帰属します。
北会津村教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。