北会津村の文化財第23集 -011/027page

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古文書 思い堀の管理者を定めたときの文書

次男に申し付け置き然るべく存じ奉り侯

左侯はば郷頭次男にも御座候間

刀指し侯儀御免成らせ相勤めさせ

申したく存じ奉り侯以上

享保六丑
 三月廿三日村松権助
        名倉忠左衛門
        浮渕甚助
        臼木覚左衛門

右は同月二十八日佐々木雲治様にてこれを写す但し右四人様方
御役所御列座にて右の儀仰せ付けられ御代官雲治様
利八と拙者をお召し連れられ御出

 この文書は、享保六年(1721) 3月23日に、代官佐々木雲治 が中荒井組郷頭兼堰戈判定役の小森惣右衛門とその次男利八を郡役所に 同道し、担当役人四名が列座した席において仰せられたものである。要 約すれば、次のとおりである。即ち橋爪組、中荒井組、坂下組、牛沢組 の四組の用水(いわゆる思堀) の管理者は、古来より中荒井組の郷頭が 請負って戈判(適正な裁決のもと施工する) を行っていたが、近くに郡 役所がある関係上、他の組の郷頭にくらべ郷頭としての用務が多いため、 止むを得ず肝煎の中から代表二名を選び戈判をさせてきた。その結果、 専門の者がいないためか用水の差引きや洪水の際の現場廻りなどなかな か困難であり、さらに諸戈判が滞ることになってしまった。そこで、中 荒井組郷頭小森惣右衛門の次男で利八と申す者を任役に就かせ、戈判を やらせるようにしたい旨の申し出があった。この堰は他に類を見ない程 長くて大きな堰なので、堰の維持管理には任役が必要である。そして、 その侯補者として利八を任役とすることが適当であり、任名することに する。さらに利八は郷頭次男でもあるので、帯刀の儀も許可する。以上 が文書の内容である。

 そこで早速代官佐々木雲治は、3月28日付で思い堀や麻生堀の水 下郷村並びに大川筋の肝煎に対して、次のように周知した。


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