北会津村の文化財第23集 -016/027page
役が二石八斗、堰下郷村の肝煎代表である当時中里村肝煎の遠藤幸助と 堰元代表である上米塚村の肝煎小池喜八郎がそれぞれ二石五斗ずつ支給 されていた。このことで、以上の三名が管理運営の中心になっていたこ とが想像できる。
なお、各村々にある大小の枝堰などの維持管理については、原則とし て各村々の肝煎を中心に、地首、老百姓などが協力して運営に当ってい た。
さて、「北会津村誌」 によると、橋爪組や中荒井組などの地域の土壌 は、大川と宮川などの複合扇状地の中州に属するため砂礫層であり、そ の層が下部に部厚く横たわり、薄皮まんじゅうのように表土を覆ってい る、とのことである。しかも、その表土の土性は砂壌土が多く、洪水の たびごとに流され、堰堤の流失は想像以上に大きかった、と述べている。 したがって「北会津村誌」にも、思い堀などの災害は洪水によるものが 多い、と述べているように、その維持管理には非常に困難なものがあっ た、と推測される。
次の文書は明和六年(1769) 四月に実施した岩崎堰普請のための 岩崎堰人足御差紙である。一 五百人
岩崎前思堀
普請人足高内
弐百四拾九人 中荒井組
百五拾七人 橋爪組
参拾壱人 坂下組
六拾参人 牛沢組
右者大沼郡岩崎前堰
普請前々の通り四ヶ組の内