北会津村の文化財第23集 -015/027page
さて、会津戦争も終り社会情勢も一応落ち着き、ようやく農業の振興 が図られる時代となり、ますます灌漑用水の確保が重要となってきた。 それに反し、年々水量が減少の一途を辿っている状況下の堰管理は困難 を極めたため、大半の堰管理は、明治25年頃から普通水利組合に改 組され、その管理者にはその地区の市町村長が任命された。しかし、思 い堀は灌漑水が五か町村にもまたがる大堰のためか、岩崎堰普通水利組 合に改組されたのが明治34年であった。しかも現在の会津大川土地 改良区に統合されるまでは、管理者が他の堰のように町村長でなく、北 会津郡長(後は事務所長) であった。
なお、麻生堀は明治25年に太治衛門堰や本郷堰とともに、本郷堰 水利組合に改組された。その時の管理者は玉路村長であった。
以上、主として思い堀などの管理者の任命について述べた。次は、実 際の管理運営がどのように行われたかを推察してみたい。
代官佐々木雲治が肝煎に出した通知文にも「堰守両人に立添い」とあ るように、堰戈判定役は、代表肝煎二名とともにこの大堰の管理にあたっ てきたものと思われる。
このことを裏付ける資料として、文化三年(1806) 四月四日付で 郡役所の赤羽清治宛に出した文書に、それぞれの堰提の概要と報酬が記 されてある。その中で、思い堀(含麻生堀)については次のように述べ られている。
岩崎堰(思い堀)
岩崎揚ロより坂下組下茅津村迄長七千九
百七拾七間の間、入口より麻生堰迄幅拾
弐間より六間まで、麻生より下までと十
文字樋まで幅四間
一、弐石八斗
但し本途米下され候 堰戈判定役
小森愛之助
一、五石
但し弐石五斗づつ壱人へとり侯様下割
中里村肝煎堰守
遠藤幸助
上米塚村堰守
小池喜八郎この文書によると、堰管理者の待遇として、文化三年の頃は堰戈判定