北会津村の文化財第27集 -007/039page

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年を経て枝葉繁茂しました。後年、心ない百姓の女が不浄衣をその枝に かけたため、松は忽ちにして枯れてしまいましたが、その後には再び一 根三茎の五葉松を生じたということです。其の後、何れの頃にか、水患 を避け、今の地に移りました。天正17年の兵火に罹って寺運はしだい におとろえましたが、文禄年中住職十三世宥明の時、会津の領主蒲生氏 郷の命を受けて飯豊山神社を復興、以後蓮華寺は飯豊山の別当となりま した。」と記してある。その後も蓮華寺は上杉時代を除いて幕末まで別 当を勤めた。なお現在地に再建された蓮華寺は、境内1362歩・ 客殿十一間に八間南向き、本尊虚空蔵・庫裡、客殿の北にあり、十間に 四間という規模であることが記録に残っている。明治の始めに神仏分離 令によって廃寺となり、寺の財産は処分された。その後建物の一部は戸 長役場として使われたり、学制が発布された翌年の明治六年(1873) には、この建物に開明小学校が開設された。明治十七年(1884) 八 月三十日の夜本堂と庫裡が焼失した。現在残っているものは山門のほか 次のとおりである。

 1 須彌壇(すみだん) 本村宝寿院にある。村文化財指定。
 2 不動明王像 本村宝寿院にある。
 3 大般若経六百巻 弘化元年(1844)会津若松弥勒寺三十世宗蓮が蓮華寺に寄進したもので、本村宝寿院にある。
 4 格天井及び杉戸 若松武家屋敷にある。

6 飯豊山に飯豊権現の杜(もり)を草創

 元弘三年(1333) に、会津郡下荒井村蓮華寺の僧祖元は、出羽国 長江庄円満寺の僧行尊と二名で飯豊山に登り、五社権現の祠を建て一ノ 戸村に鳥居を立てた。それ以来、祖元は同山の別当先達となる。また同 年下荒井村に飯豊権現を創建した。
 文禄元年(1591)蒲生氏郷は、飯豊権現(神社) の荒廃を嘆かれ、 時の蓮華寺十三世住持宥明に山道の開拓と祭典の復興を命じた。宥明は 五年の歳月をかけ、文禄四年(1595) 八月登山して祭典を行った。 氏郷死後、その子秀行は宥明の功績を賛えて一ノ戸村薬師寺の別当をも 兼ねさせた。そして寺に知行五十石を寄進した。その後も上杉景勝の在 封を除いて蓮華寺は別当となり、各領主より五十石の寄進がつづけられ た。左記は知行書の一部である。

慶長6年(1601)知行書

会津分領において

御知行五十石

寄進奉り侯まったく

社務あるべきものなり

慶長六
 十月十八日 秀行 (花押)

飯出山  別当坊


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