北会津村の文化財第27集 -024/039page
いる。なお出新田分は11軒焼失の誤りであることがその後の調査で判 明した。いつの世も戦争の犠牲者は民・百姓であり、村民は、やがてやっ てくるきびしい冬将軍の前に着のみ着のままで放り出されたのである。 左の図は焼却家屋を示すものである。◇ 関連事項
会津藩の確立は、将軍家光の異母弟、保科正之が会津の藩主となった ときからと言われている。正之は将軍家綱をたすけ、幕府の文治政治を 指導すると共に、藩政の確立につとめた。家訓十五ヶ条や社倉制は正之 の儒教的理念の政治への反映であった。
その後元禄九年(1696) には、保科正容に将軍より松平の姓と葵 の紋章を賜った。天明八年(1788)藩は郡奉行主役のほかに、新た に添役四人を置き、耶麻郡戸ノロ村・会津郡中荒井村・河沼郡浜崎村・ 同郡上野尻村に郡役所を置く。また享和元年(1801) には会津藩日 新館が落成する。安政六年(1859)幕府から蝦夷地を与えられ、開 拓と北辺の警備を命じられる。文久二年(1862)松平容保は京都守 護職に任命される。慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いが起こり、戊 辰戦争が始まる。また政府軍は年貢半分の布告を発し、会津藩領民の懐 柔をはかる。会津藩は明治元年(1868)九月、ついに降伏し鶴ヶ城 を開城する。
同年10月15日から三日三晩、会津郡中荒井組・高久組及び大沼郡滝 谷組などから多くの農民が蜂起し、一部の肝煎の家を襲い、水帳(土地 台帳)等徴税帳簿を焼失するなど、所謂やぁやぁ一揆が勃発した。
以上、北会津村の歴史上その証拠となる裏付資料のあるものについて、 歴史民俗資料館の歴史コーナーの展示の順序に従って解説した。歴史民 俗資料館見学の参考になれば幸いである。 完参考資料
北会津村の文化財
北会津村誌
小森五良家文書