北会津村の文化財第27集 -023/039page
9 敢死隊
戊辰戦争において、会津藩は農民・町人でその身分を問わず、頑健の 者で敢死の気性のある者を選び、士分の資格を与えて敢死隊を編成した。 戦争もたけなわとなり、正規兵と一丸となって奮戦したが、西軍の大軍 団と近代火器の前に悪戦苦斗し、力尽きて遂に開城となった。この敢死 隊には本村からも多数の人が選ばれている。10 小松獅子隊による無血入城
慶応四年旧8月24日、南会津方面で転戦していた朱雀(すざく)四番寄合組 中隊の隊長である国家老山川大蔵のもとに「城中兵少なく守備薄弱なり 速やかに帰城すべし、但し途中の戦斗を避くべし。」との藩公からの命 令で、山川隊長は早速兵をまとめ、大内峠を越えて下小松村に到着した のは24日の夕方暗くなる頃であった。斥候を出して城下の状況を探 らせると、城は敵の重囲の中にあって蟻の這い入る隙もないくらいとの 報告であった。山川隊長は、彼岸獅子の鼓笛を利用して軍楽隊を組織し、 西軍の別動隊に見せかけ敵の目を欺いて入城する策戦を考えた。しかし これは危険な賭で、見破られれば袋の鼠であり、全員戦死を覚悟しなけ ればならない。山川隊長はこの旨を長老達に話をして協力を求めた。長 老達は村人達に「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」という山川 の言葉を伝えた。村人の意気は大いに揚がった。しかしいざ隊員の選出 となると何しろ一歩間違えば皆殺しか、ただでは帰れない危険性を孕ん でいる。そこで自選や他選もあったが、独身者を主とするということに し、隊長高野茂吉以下十名が選ばれた。隊員は次の人達である。
御 弓 藤田 与二郎(11才)
大夫獅子 蓮沼 千太郎(12才)
雄獅子 大竹 己之吉(12才)
雌獅子 中島 善太郎(12才)
笛 高野 茂吉(30才)
〃 高木 金三郎(14才)
太 鼓 渡部 藤吉(18才)
〃 大竹 小太郎(14才)
〃 藤田 長太郎(17才)
〃 高野 長太郎(15才)以上十名は、26日の未明家族と水盃を交わし、大川を密かに渡っ て飯寺村に入り、獅子隊を先頭にして隊伍を整い、西軍の守備している 陣の南端に出ると一斉に「通り囃子」 の吹鼓で行進したが、西軍はその 妙なる音律と整然たる隊伍を見て友軍とでも勘違いしたか、或いは新し く組織された軍楽隊とでも思ったのか、呆然としてその所属すら問わな かったといわれている。かくて山川隊は一兵も損じることなく入城する ことができた。
このことは、山川隊長の機略によるものとはいい、何といっても獅子 隊の少年達の勇気ある行動である。白虎隊は武士の子息で当然とも言え るが、小松の獅子隊は農民の子息であり、この壮挙は白虎隊以上に評価 されるべきものである。獅子隊は後に全員帰村したが、明治四年二月十 七日御薬園において、松平容保・容大父子からその功績を讃えられ、小 松獅子に限って頬掛けと高張提灯に葵の紋章の使用が許された。11 戊辰戦争で兵火にかかわった上米塚村の惨状
慶応四年9月7日の夜、上米塚村は一瞬にして灰塵廃墟と化した。戊 辰戦争が9月22日の落城後、同年10月に上米塚村肝煎小池喜八郎が 民政局に出した嘆願書の一部に「本村の義、34軒のうち27軒焼 失仕り、出新田分16軒のうち10軒焼失仕り、これをもって右同断、当 年の御年貢の義御用捨なしくだしおかれたく願い上げ侯」とあり、他に も郷頭をはじめ村役人などからも民政局に対し多くの嘆願書が出されて