北会津村の文化財第27集 -032/039page

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上米塚の肝煎  星 寛

新編会津風土記巻之十九に

   旧家
 小池伝吉、世世此町の検断を勤む、先祖は清和源氏にて小池左近實利 とて甲州小池郷に住し武田信玄に仕ふ實利が長男を實次と云初藤七と称 し後修理之介と改め会津に来り葦名盛氏に仕へ弓大将となる其次を外池 信濃と称し又其次を内池備後とて二人共に蒲生氏郷に仕えり女子は金上 遠江守盛備に嫁せり盛氏自筆の文書を以實次に宅地を與ふ是より此町に 住し子孫相伝て今に至れり盛氏曽(カッ)て其宅に宴(さかもり)し三階の櫻に登り歓(よろこび)のあまり筆を援(とっ)て北大櫻と云額を題す盛氏修理大夫なるにより改て歌之丞と名 乗るへき由を命す此時實次貞宗の短刀を献せりと云盛隆の時に至り故有 て仕(つかえ)を辞し南山楢原郷に蟄居する事八年蒲生氏郷封に就て、信濃と備後 かゆかりにより、其名を聞き及て之を招くされと實次は盛氏の恩顧厚か りし故任(つかえ)る事を願はす困く其聘(ヘイ)を辞す此時氏郷より日月を彫たる硯と三足の蟾蜍(センジョ)(月の別名) の水滴(スイテキ)を與へり今猶家に伝う嗣子雅楽之丞實忠仕 て代官たり實忠死し弟雅楽之丞實家嗣て仕へしが蒲生家絶て浪人し伝吉 實明加藤家領知を収公せられし時台命ありて諸士の家宅を引受漆蝋の府 を守らしむ因て官より廩俸(リンホウ)を賜りしと云当家入封の後家資を以て、新田二百石の地を闢(ひら)きし功により寛文七年に知行百石を與へ丁夫五人を率ゐ 戒事に従ふべきよしを命せり是より今に至て其子孫絶えず此所に住し検 断を勤む盛氏の文書一通を蔵む其文左に載す

 其方屋敷の事うしろ町に可遺侯請取早々使に被越可在侯左侯はは合遺侯かしこ
   止々斎判
     小池方へ
小池傳吉

 此町の検断にて實次が末孫なり少より父母に孝あり家豊なれとも家風 の淳素著しとて数数褒賞にあつかり常に書き讀ことを好み近里の童を教 導(おしえみちび)き上を重し下を恵み子弟の如くいさなひけれは人も亦兄弟の恩をなせり其母に事(つかえ)る飲食は寒温を節し寝所は安らかんとを欲し僮僕あれとも彼か手をからす如し出ることあれは妻子に向て母の事いましめおき帰れは すくさま母の前に出てさきさきのこと委(くわ)しく語り時をも移せしと云又雨 ふる日徒然なるをりは彼の学童を聚(あつめ)て種々の物語に母の心を慰め其篤孝 人の美談たりしか天明七年米を與て賞す

 又上米塚の肝煎の伝える文書も風土記と同様ではあるが重複(ちょうふく)するがあえて記す

 柳々(そもそも)小池家の先祖は、清和天皇の末裔(まつえい)新羅三郎義光の御胤(ごらくいん)として甲洲 武田氏の支族なり、世々甲洲都留(つる)郡富士の裾野精進湖畔「湖池郷(こいけごう)」 三万石を領し郷人湖池殿と称し川口城に住し左近實利に至り氏を小池と改め、 實利三男一女あり長男修理之介實道武田氏滅亡の後、会津に来たり葦名 盛氏に仕え弓大将となり、禄高壱万五千石を賜る 次男外池信濃守、三 男内池備後守、二人共に蒲生飛騨守氏郷に仕え一女は葦名氏の参謀津川 城主参万八阡石金上遠江守盛備(もりはる)に嫁す。修理之介實次二子あり、長男雅 楽之丞實通相続きて葦名家へ仕え、葦名家滅亡後南山楢原郷に蟄居する 数年今尚楢原郷に小池村と云あるは、實次の名跡(めいせき)なり。其の子孫相続て 實利に至り加藤左馬之助嘉明入封後召れて漆蝋(うるしろう)奉行となり若松北小路町に住す次男は即ち我が上米塚村の小池家の先祖築後守貞道なり、葦名家 滅亡後浪人となり、米丘村の郷士米塚又吉の食客となる。其後蒲生氏郷


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