北会津村の文化財第27集 -033/039page
入封するや叔父外池信濃守は仕置奉行、内池備後守は町検断を務む とある。又、上米塚村泉現寺に、大正五丙辰年七月宇羅盆会に撰者、 小池築後守添貞道拾八代之主 小池徳美、筆者 撰者之二弟河沼郡千咲 之住人 小池道康 両方が遺(のこ)してくれた「上米塚村地誌並泉現寺及玉光 堂之由来記」
と云う往古よりの歴史が掲額(けいがく)されており、此れを見る限り、他に誇れる資料である。
抑(そもそも)此村中古郷名廃絶し、近古に至りて郡名をも失い、謬(あやま)って大沼郡に 編入されし也。保科正之公乃会津に封せらるゝや、能(よ)く故(ふる)きを温(たず)ねて其謬(あやま)りを正し、寛文年中復古して会津郡とせらる。而して荘を門田となし、組を橋爪より隷(レイ)せらる。先日至徳年中に在りて、葦名直盛幕之内村より 住せし時、此村に米倉ありし故村名を米丘と唱いしが、天正年中米塚又 吉と云う者、此村の主宰たりし故、自然米塚(よねづか)と改りしと云う。今小字屋敷と唱う敷所は是米倉の跡にして、即ち又吉の屋敷跡なりと云う。其の 後蒲生氏郷の封土となるや、之れを我首祖乃小池築後守に賜う。今家数 五軒なり。
皆氏を小池と称す。此村往古は現今の居村より丑黄の方五町許りにあ りしが、天和(天文)年中の大洪水にて屡々(しばしば)水害を蒙り、村民其難を憂(うれ)て追々今此処に居所を移したるなりと。然るに村の中間を日光街道の横 断するを以て上下の字を加えしと云う。今の社跡も其の節移したるもの にして、旧社は天和三年(天文五年)此大洪水にて川となりし也。此村 の氏神は熊野宮にして、元壮宏なる神殿なりしも宝暦六年(七年) の洪 水後、下米塚の八幡宮と共に同郡柏原村の伊勢の宮に移し奉る。是れ両 宮共に大沼郡本郷村の宗像出雲が宮司なるを以てなり。
此村文化六年現存する家数七十六軒、端村共に村の東三町半許を隔て て、鶴沼の巨川、今の大川なり。本郷村地内より来り流る。二十余町に して、飯寺村の境に入る。此河往古は僅(わずか)に佐野村の用水堰掘なりしが、 天和(天文)年中の洪水にて今の如くとなれり。其の以前は本郷村岩崎 山の麓より西に赴き、橋爪 下野両村の間を流れ北に行きて宮川に合す。 河沼郡に入る。而して其の当時の渡船場は、橋爪村の受持なりしが、水 流変じて此村の受持となり、平素は綱越なれ共 冬期は仮橋を架して行 客乃便を計る。是れ若松城下より日光へ通ずる街路の枢要(すうよう)の渡船場也。
端村宗頤町は葦名盛氏公元亀年中、羽黒山(岩崎山) に築城居城の折、 此所の町を開き、典医糟尾法印 宗頤(そうえ)と云う者之れを領せし故其の名な りと云う。又大川端に石の宝殿あり、之を糟尾権現と云う。其の右側を 流通する用水堀を権現川と称す。本村の己午乃方五町十間にあり、家数 二十三軒。糟尾宗頤は葦名盛氏(盛隆)公乃命を受け、織田信長に使え て功なり法眼に任せられる。先祖は野州(栃木県) の人松浦(まつら)氏なりしが、同国糟尾村を領せしに依って氏とせり。又滝沢村にも領地ありて今尚同 村に法眼山の古蹟あり。
端村中新田は旧(も)と、下小松村分の原野なりしが、寛永三年小池築後守 貞通の長子道利と云う者、蒲生家より其の空地を引受け、之れを開墾せ しめて田畑六万余町坪に及べり。而して此処に移住する十八軒に之れを 分与せり。
蒲生家其の功を賞して左京を代官に任じ、開墾地を此村に隷属(れいぞく)せしむ。其の際蒲生家の三奉行より与えられたる制札今尚此端村の民家に在り其 文左の如し
定
大沼郡小松村の小池左京新田宿相立侯御代官給人構無之者望次第罷出 開作可致侯、二十箇年以前爾致欠落侯者、屋焼人殺致候者の外は、御代 官給人構無之罷出於開墾は異議有間敷侯、御年貢之儀は三箇年作取被下 御役儀末代可被成御容赦侯条可得貴意侯也
寛永三丙寅年二月四日
外池信濃守