北会津の昔ばなしと伝説 -049/238page

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と願い出たんだど。

 殿様(とのさま)は大層(たいそう)喜んで、農民の為(ため)になることだから実施(じっし)するようにと、許(ゆる)しが出たんだど。備後(びんご)は、1556年頃から毎日毎日大勢の人々と共に20年近くかかって念願(ねんがん)の堰(せき)を完成して、その堰(せき)を岩崎堰(いわさきせき)と名付けたんだど。

 この工事は、会津でも屈指(くっし)の長(なが)い堰(せき)のために大工事となり、完成(かんせい)までにはいろいろ思い出があっただど。それでこの堰(せき)を別名(べつめい)「思(おも)い堀(ぼり)」 とも言ってるんだど。

 なお、小森備後(こもりびんご)は工事(こうじ)の功績(こうせき)を認められ、下小松村(しもこまつむら)内に領地(りょうち)をいただいたんだど。そして、その領地(りょうち)の田園(たんぼ)までの堰(せき)を小森田堰(こもりだせき)とも呼んで、その功績(こうせき)を忘れないようにしてんだど。

 その後、昭和38年以来の圃場整備(ほじょうせいび)により、現在の堰(せき)は、幹線水路(かんせんすいろ)が六本となり、そこから細かく分水(ぷんすい)されるしくみとなり、田圃(たんぽ)の水かけも心配がなくなっただど。


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