北会津村誌 -022/534pag
とも、考えられないこともない。それは大川がはるかに東寄りの日吉方面を流れたこともあるらしいからである。
これは伝説などにもあるが、鎌倉期前後、金売吉次兄弟が高瀬の渡し場で遭難したという話がある。勿論これは史実とはみられないが、大川が現在の如来堂神指城の東を流れたという証跡は、地形的にも拾われないことほないし、如来堂の檀家関係が、現在も北会津村に関係あるのは、その名残ともみられる。かくみてゆくと、湯川は、特に扇状地の南縁を迂回するようになった応永以後は、大川と合流したことを考えることは無理がない。
赤沢川の宮川への合流地点の変遷はよくわからないが、現在よりやや上流にあったことは考えられる。ただ現在会津高田町のある宮川扇状地の扇面は、相当古くから台地になっているので、近世これを越して、宮川へ合流したことは考えられない。
大川即ち阿賀川が、ほぼ現在の流路をたどるようになったのは、天文5年の洪水で、宮川へ合流して驚いたほどであるから、それよりは古く、応永26年に押切られたことも稀有のこととして記録になっている。恐らくはそれ以前、1400年頃までには、蟹川から佐野辺までの流路は、ほぼ固定しはじめていたとみられる。
寛文5年(1665)中荒井組河原・谷地書き上げ 中荒井 1.北河原 2.小林河原 3.御伊勢河原 4.関根河原 5.宮在家河原 6.げんちゃう河原 二日町 7.上河原 8.石河原 9.西河原 10.下西河原 11.ぬい河原 東麻生 12.前河原 13.たての河原 宮 袋 14.中河原 15.中嶋河原 16.川前河原 17.前河原 18.十三仏河原 19.安倍河原