北会津村誌 -158/534page

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る北会津村の大偉観といっても過言ではなかろう。

 ただここで小学校の創設以来のことを一通り述べてきたが、荒井・館の内村の合併の際は荒館小学校の名称が 既に合併に先駆して、それをむしろ誘導してきたかにもみえたが、川南村との合併では、学校の統合が最も面倒 な問題となったかにみえる。これは新鶴村その他でも合併の際に起っている一つの難題のようである。これを早 く、如何に脱皮するかが、合併村の一歩の前進の鍵ともなっているようである。

第十章 人口と経済の充実

一、寛文五年より現在に至る人口の増減

 村の経済の発達・充実は、一応そこに住み得る戸数なり人口で把握することができるとみられる。生活程度は 勿論、時代により地域によって差異があるが、北会津村な核心的な都市があるわけでなく、下荒井が宿場町にな ったことはあるが、これも軽井沢銀山の盛衰がはげしかったために、宿場町としての繁栄度にも変遷があって、 常には純農村として生活を安定させてきたようである。

 中荒井村に郡役所があって、盆地の村々を相当広範囲に統治したことがあり、御蔵入りの幕府直轄領の上納米 が搬入されたことさえあるが、中荒井村を都市的繁栄にもたらすことはなかったようである。

 下荒井・小松・上荒井などの城廓の規模は、農村に散在するものとしては、五、〇〇〇石などと伝えて、相当 大きなもののようであったが、中世にはまだ城下町の商業的発展をみせず、農奴的の者が隷属していたに過ぎな

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