北会津村誌 -161/534page

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部落名 下米塚村 両堂村 西後庵新田
(西後庵)
上荒井村  北会津村分

大島村

下小松村
 (小松) 
三本松村
寛文五年

戸数

             

 

同竃数  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同人口  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文化六年

戸数

  五六

一二

 

 

二一

六五

小計

三五二

 

九八九

 

明治八年

石高

  五八〇・七

一二四・七

一九三・一

 

 

二三〇・八

九二五・七

 

 

 

 
同戸数   五七

一三

 

 

二〇

六一

小計

三七六

 

九八六

 

同人口   四一九

八八

四五

 

 

四五

三八六

小計

二三二

 

六、〇〇〇

 

昭和四一年

世帯数

九六

一二

一九

一九

九五

六八

小計

五七〇

一、三六六

同人口

四四二

九二

一一五

一九

一三五

四六三

三〇七

小計

三、〇〇三

七、三七三

二〇五

三九

五九

七一

二二八

一四五

三、四七五

二三七

五三

五六

一〇

六四

二三五

一六二

三、八九八

いらしいから、近世の会津若松市が城下町としての繁栄をみせたようにはいかなかった。

 また山麓の寺院などにみられた、門前町を形成するほどの信仰の基地もなかった。会津坂下町・会津高田町の ように、谷の口にあって、山と平野の物資の交易市場のような特色は勿論そなえなかった。

 それだけに、この古くよりの純農村としての開発度をみたいが、このような農村にはそれを対比するだけの資 料を得難い。漸く寛文五年(一六六五)の人口・竃数の統計が部落別に得られたが、まだ旧橋爪組に関するもの が発見されないので、現在との対比、繁栄度をみることは容易でない。

 一応旧中荒井組二十数個部落の戸数を集計してみると八〇八となる。竃数は一、〇〇一に達するが、中荒井村 下荒井村などにその差の大きいのは、やはり移入人口が多く、非農家や兼業農家が古くから多かったことを示す ようである。人口は四、三三九、一戸平均は五・四人ほどになり、家族構成はあまり大でない。これを竃数で除 すと、約四・三人となり、農村として少し低い観がある。やはり蔬菜栽培などを古くよりしており、城下町の郊

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