私たちの村の農業 農業副読本編纂推進事業 - 006/032page

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B 村の移り変わり

 今からおよそ2000年ほど前、私たちの村に人が住み、生活を営んでいたことは、今和泉(いまいずみ)遺跡から発掘された出土品や、住居跡があったことからも知ることができます。

 そのあと、いくつもの集落を支配していた豪族の墓が、田村山古墳として残っていることからもわかります。人びとは荒地や沼を開いて田や畑にし、耕地をしだいに増やしていきました。

 世の中が、武家政治の時代になると、地頭(じとう)・領主(りょうしゅ)という武将の支配をうけるようになりました。そして江戸時代になると、組割がなされ、私たちの村の南部の集落は橋爪(はしづめ)組に、残りの大部分は中荒井組となりました。会津藩からの命令で、年貢のことや、くらしのことまで世話をする肝煎(きもいり)という役柄(やくがら)の家が、どこの集落にもおかれました。年貢(ねんぐ)のうちでも、米はいちばん大切なので、下荒井の城跡(しろあと)には米倉がいくつもつくられていたということです。

 武士の世の中もおわり、若松県と磐前(いわさき)県とが福島県に合併(がっぺい)して、現在の福島県となったのは、明治9年8月21日のことです。そして今の北会津郡の名前がついたのは、明治12年1月27日となっています。

 明治21年には市・町・村の制度が公布されて、翌年の4月に荒井村、舘ノ内村、川南村ができました。荒井村と舘ノ内村が合併して荒舘村と

田村山古墳
田村山古墳


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