わたしたちのきょう土河東町-002/104page

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2 町のうつりかわり
(1) 大昔の河東町
町内のあちこちから、縄文土器のかけらや石器などが発見されたことから、河東町に人が住み着いたのは、縄文時代の始めごろだとされています。また、横手遺跡から石を打ちくだいて作った刃器も見つかっており、縄文時代よりもずっと前の旧石器時代(先土器時代)にはもう人が住んでいたかのうせいもあるとされています。
また、弥生時代には河東町に集だんで人々が住むようになったのではないかと考えられるような遺跡がたくさん見つかっています。中でも、田中原遺跡[今は、ほ場整び(田に機械を入れるために整備すること)のためになくなった]からは、全国でもめずらしいたん水(川に住んでいること)の貝の貝づか(昔の人が食べ捨てた貝のからが土の中にうずまってできた遺跡)も発見されました。
その後、となりの磐梯町にあった恵日寺が、会津地方に力をのばしたため、会津のあちこちにたくさんのお寺がたてられました。藤倉二階堂もその一つだと言われています。また、このころは日本中がみだれていたため、浄土信仰が広がり、空也上人などが活やくしました。また一方では、武士たちは、熊野.八播の信仰の印として、熊野堂の熊野神社や大和田の八播神社をこのころにたてたといわれています。
出土した土器
▲出土した土器
熊野堂の熊野神社
▲熊野堂の熊野神社
大和田の八幡神社
▲大和田の八幡神社

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