わたしたちのきょう土河東町-086/104page

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とうとうお金がなくなってしまいました。
ところが、1632年、との様が加藤明成にかわり、開田に力を入れるようになり、内蔵之助の工事を助けることになりました。そして、1936年、ついに猪苗代湖の水を引くことができました。
工事が始まってから14年目のことでした。
高野下、稲荷原、生井、十一軒、六軒、漆沢、八田野などに新しく田を開くことができ、米もたくさんとれるようになりました。
そして、との様から、その手がらをほめられ、内蔵之助の家は、村の名の「八田」の姓を名のることがゆるされました。
これが、「八田堰」です。
その後、何度かほり進められ、城下町若松の慶山村までえん長され、湯川にそそぐ大きな堰となり名前も「戸ノロ堰」とあらためられました。
▲戸ノロ堰(八田野堰)年表
江戸時代 1623 (375年前) 八田内蔵之助、戸ノ口工事はじまる仕事をした人
二万人→との様がかわり二年で中止
1624 (374年前) この年凶作
1632 (366年前) ふたたび、戸ノ口堰工事始まる。仕事をした人数万人
1636 (362年前) 戸ノ口堰を完成(高野下、稲荷原、生井、十一軒、六軒、漆沢、八田野に新しく田を開く)
1643 (355年前) 会津地方に四十二の新田ができる。
1657 (341年前) 花積弥市、なべ沼から金堀まで(十キロ)堰をつくる。
1693 (305年前) 古川そうじ之助が、金堀〜滝沢〜飯盛山の北西をまわって、慶山を通って城下まで堰をつくった。
1728 (270年前) 四度の大こうずい。 ひがいが大きい。
1649 (249年前) 農民いっき、打ちこわし
1774 (224年前) この年ききん
1782〜 (216年前) 三年間米がとれない。 天明の大ききんとなる
大凶作、二千五百人もが死する
1833〜 天保の大ききんとなる。
四年つづきの大凶作、多くの人が死する
1833 (165年前) 佐藤豊助を中心として、戸ノ口堰の改修工事始まる
 1) はばを広げる
 2) どう門をほる
 3) かりがね堰と合わせる
1835 (163年前) 戸ノ口堰ができあがる。
仕事をした人五万五千人
1868 (130年前) ぼしん戦争で白虎隊、どう門を通る

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