わたしたちのきょう土 磐梯町 -095/116page

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(5)太平洋戦争前後のころ

1931年(昭和6年),日本は中国の満州に軍隊を出し,13年もの間,中国と戦うようになりました。

1935年(昭和10年)には,小学校の施設を使って,青年学校ができました。戦争のための教育でした。

1941年(昭和16年),日本はアメリカ・イギリスとも戦争に入りました。磐梯町からも大勢の青年や働きざかりの人たちが戦地に行きました。

国内では食料がたりなくなり,米などの配給(はいきゅう)制度が実施されました。また,学校の校庭にもいもなどの作物がつくられるようになりました。

1945年(昭和20年)8月15日,日本の降伏によって,戦争は終わりました。

これまでの戦争で,磐梯町からは166人の方が戦地で亡くなりました。

老人福祉センター前の戦没者慰碑
老人福祉センター前の戦没者慰碑

終戦後,アメリカの政治方針によって,国民の生活は大きくかわりました。

なかでも,農地改革と教育制度の改革は,人々に大きな影響(えいきょう)を与えました。そして,急にかわった新しい制度も,大きな混乱もなく生活の中にはいってきて,今日の姿になったのです。


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