わたしたちのきょう土 磐梯町 -101/116page

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空海は,徳一に手紙を送って,徳一がきびしい修業と海のような知恵をもって東国に仏教を広めたことをほめたたえ,自分が中国から持ってきた真言宗などの書物を写して,広めてほしいと頼んできました。

しかし,真言宗も天台宗と同じ立場にたつ教えであったので,徳一は11ケ条にわたる「真言宗未決文」を書き空海に送りました。徳一は,一つ一つ根拠をあげて疑問点を示し,真正面からぶつかっていったのです。

(6)徳一の残したもの

824年,徳一は茨城県の筑波山に移り,中禅寺という寺を建てました。そして,この寺を中心にして法相宗の仏教を広めようと北関東や福島県のいわき地方に出かけて教えを説きました。

842年,62歳のとき徳一は,奈良の興福寺の大会に法相宗の一番の権威者として講師に招かれました。

体の衰えをおして,大会を立派に成功させた徳一は,奈良にとどまるようにとの勧めを断って会津へ向いました。

かねてから徳一は,会津に骨を埋めようとしていたからです。帰ってまもなく,死の床についた徳一は,初めて磐梯にきた遠い日のことを思いうかべました。

そして,自分の選択は決して間違っていなかったと思いました。

大勢の弟子たちに囲まれて,座ったまま眠るような死であったと伝えられています。


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