わたしたちのきょう土 磐梯町 -100/116page

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(5)徳一と最澄

会津の恵日寺の徳一の名声は,遠く都へもきこえていきました。

最澄(さいちょう)は,中国に留学したときに学んだ天台宗をほんとうの仏教の教えであると説いていました。

勝常寺にある徳一の木像
勝常寺にある徳一の木像

徳一は,法相宗(ほっそうしゅう)の立場から,書物をあらわして天台宗の考えを批判しました。

これに対して最澄も天台宗の立場から書物をあらわして,反論しました。

二人は,遠く比叡山と会津の地で何回も文書をやりとりし,はげしく論争を続けました。この論争は「三一権実(さんいちごんじつ)論争」といわれ,最澄が亡くなるまで続けられました。

「人間の個性には差があり,越えることができないものがある。仏への道は別々であるけれども,修業の積み重ねが必要である。」と考えた徳一。

「人には,もともと仏の心に通ずるものがあり,仏への道は一つである。人はみな心からの求めによって仏の道に入ることができる。」と考えた最澄。

二人は,インドや中国でも議論されたことをひきあいに出しながら論争したのです。


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