磐椅王国 -027/034page
76.中ノ沢(なかのさわ)こけし
中ノ沢は古くからの温泉で、大正三年以 降木地製品を扱う土産物店や木地工場がで き、遠刈田系と土湯系の工人が数多く出入 りしました。土湯系の工人で、宇都宮生ま れの(故)岩本善吉・芳蔵親子は大正十年か ら中ノ沢に住み、盆や茶壷などを作ってい ましたが、2年後にはこけしを手がけ、大 きな目と鼻・目の回りを赤く塗る「たこ坊 主」と愛称されている独特のこけしを作り ました。現在もその流れを継ぐ工人が町内 に在住しています。(故)本多信夫は芳蔵の 木地に描彩をしていましたが、昭和十年ご ろからこけしを作り始め、戦後は岩本芳蔵 について木地修業をした養子洋と共に一重 瞼の可愛い表情で、胴に牡丹の花を描く独 自の型のこけしを作りました。瀬谷重治は 製材工として働いていた昭和二十八年、職 人仲間の芳蔵に弟子入りし、善吉型のこけ しを作り、昭和四十七年からは長男幸治も 父について木地挽修業をし、面描鋭く気迫 が感ぜられる善吉型のこけしを継いでいま す。柿崎文雄は昭和三十九年から木地修業 し、鳴子系の高亀型こけしを作っていまし たが、四十二年に芳蔵の許可を得て善吉型 を作るようになりました。また町外在住の 「善吉型」こけし職人としては、渡辺長一 郎(郡山市)、斉藤徳寿・良寿(会津若松市) らがいます。(敬称略)
(故)本多信夫作品たこぼうず77.いなわしろの民話(みんわ)
猪苗代町には「足長・手長の物語」・「弁慶の硯石」などの昔話や伝説が、現在200余話ほ ど残されています。これらの民話が埋もれてしまわないように、昭和五十四年には『いな わしろの民話』(全3巻)が出版されています。
昔磐梯山の麓の村に爺と婆がつつましく暮らしていました。さて、ある日暗くなつてから、山さ 行った爺が帰ってきた。出迎えた婆が、ふと爺の顔を見ると、たまげてしまった。爺は左の目がつ ぶれている片目なのに、今夜は左の目だけらんらんと輝かせて、右の目はしょんぼりくぼんでいる ではないか。「ははあ、これは狐が爺に化けてきたんだなあ」と、 婆はすぐ気がついた。それでその爺に「爺また酒に酔って帰っ たな.酔うすどいつもの癖で俵さ入つて寝んだべえ」すると、 爺は「文句つけねえで、俵布団だせ」って。俵さ入つて寝っち まった。「めんどくせえな−、縄でしばんのが」ったら、俵の 中から眠そうな声で「うだ−」そして、こころよさそうに婆に 縄をかけられた。「縄かけたげんど、火棚の上であったまんの が−」って言ったらこっくりした。
婆は力を振り絞ってがらに、俵の爺を囲炉裏の上の火棚にか つぎ上げて、動かぬように火棚に縛ったと思うと、表から笠松 葉をおつこんできて、どんどん下からいぶした。いぶされっと、 化けていても狐はついにしっぽ出すって、長いしっぽをよ−。 そこさ、今度は右の目輝かせて、本物の爺やが帰ってきた。 左と右をとっちがえて化けたばっかりに、狐はキツネ汁にされ て人間様に食われてしまったど。
−民俗文化財−