郷土読本 わたしたちのきょう土 猪苗代-096/112page

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(2)長瀬川ぜき
今から80年前ごろ,長瀬川の東部の村々は,水の便が悪く,田や畑も今のようにはないさびしいところでした。そのころには,上五ヶ村ぜき・下五ヶ村ぜき・小田川ぜき・名家ぜきなどがありましたが,水の量が少なかったり,水のせいしつが悪かったりして思うように利用できませんでした。
上五ヶ村ぜきでは,名家ぜきの水を酸川に樋をかけて通すようにしていましたが,こう水で何回も流されていました。
下五ヶ村ぜきでは,長瀬川の水を今の伯父ヶ倉のあたりから取り入れていましたが,米づくりに適さない水だったことや,1888年(明治21年)の磐梯山のふん火や大こう水などがあって利用できなかったりしました。
1916年(大正5年)の裏磐梯3湖(槍原湖・小野川湖・秋元湖)の貯水工事がきっかけとなり,野矢新九郎らのはたらきで,4つのせきを1つにまとめて長瀬川ぜきとよぶことにし,1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて工事をし,1本のせきになりました。
「かけわたる 長瀬のせきのうまし水 秋のみのりを 祈りつつ見る」
野矢新九郎の頌徳碑(内野)
野矢新九郎の頌徳碑
工事の中で,酸川の川底を通すサイフォン工事は,たいへんむずかしい工事だったということです。
サイフォン注入口(名家)
サイフォン注入口

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