郷土読本 わたしたちのきょう土 猪苗代-100/112page

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を受けました。
世界各地に,博士の業績をたたえて「ノグチ」の名をつけた病院や学校もつくられています。
博士のいろいろな資料がおさめられている野口英世記念館には,年間およそ100万人の見学者があります。
(2)偉大な文学者 猪苗代兼載
兼載は,猪苗代湖畔小平潟村(今の天神浜あたり)に生まれました。早くから私業の道にすすみ,名を興俊とよびました。和歌や連歌のすぐれた才能にめぐまれ,19才の若さで,当時の名高い連歌師である心敬や宗祇らといっしょに,連歌会で有名な「河越千句」に参加するほどでした。
この河越千句への参加をきっかけに,心敬を先生として,宗祇を兄として教えを受け,やがて京都に出て,みごとに連歌師として名声をとどろかせました。
連歌師としての初めの名を宗春とよび,後に兼載とあらため,相園坊耕閑軒とよばれました。
39才で,連歌師として最高の北野連歌会所奉行の宗匠という職につきました。そして,宗祇を助けて「新撰菟玖波集」を完成させ,連歌の歴史にのこるすばらしい業績をのこしています。
50才から59才までの10年間は,会津や関東各地でかつやくし,会津の人びとに連歌を教えています。
52才のとき,会津で力のある文化人であった顕天のために、「竹林抄」を説い聞かせています。54才のときには,蘆名盛高,盛滋親子の対立があり,「蘆名祈祷百韻」をよんで争いが早く終わることを祈ったといわれています。
56才のときに「八代集秀逸歌」をつくりました。今でも,県指定の

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