喜多方市の文化財 -045/055page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

自由民権関係碑

 自由民権思想は、明治政府の中央集権的藩閥体制に対して、 全国的に澎湃(ほうはい)として起こった。それらは国会開設運動、地租改 正、不平等条約改正へと進展した。喜多方地方でも、明治11年(1878) 民権結社「愛身社」が結成され、ついで「先憂党」 (同13年)、「自由党会津部」 (同14年)と発展した。

 明治15年、県内自由党の撲滅を使命として赴任した三島通 庸県令は、着任早々、会津三方道路開削を企画、会津六郡連合 会の決議を無視して強引に工事に着手した。これに対し住民は、 権利回復訴訟同盟を組織して、不法な工事の中止を求めた。し かし反対する指導者を次々逮捕し、この釈放を求める農民との 間に、11月28日夜、喜多方事件が発生し、多数の逮捕者 を出した。

 この喜多方事件を契機として、全国各地の民権活動は武力闘 争化するようになった。

所 在 地  新道 出雲神社内

自由民権関係碑

瓜生岩子生誕の地

 社会福祉の先駆者として知られる瓜生岩子(またはイワ)は、 文政12年 (1829)、小田付村の油商渡辺利左衛門の長女 として生まれた。9歳の時父に死別、その上火災にあって、熱 塩の母の実家に身を寄せ、瓜生姓を名乗る。

 34歳で夫に死別し、一男三女の子どもを熱塩に預けて本 格的に貧民救済事業に献身する。戊辰戦争では、敵味方の別な く負傷者の手当をし、藩士子女のため幼学校を建てる。明治4 年、東京深川の救養会所で救済事業を学び、同19年には福島 救育所を設け、全国に救養所を設置するよう帝国議会に請願す る。64歳で東京市養育院幼童係長になり、その傍ら名士婦人 と交わり援助と理解を得る。帰郷後は、産婆研究所・育児会・ 済生病院と、育児保護と貧民救済のため席あたたまる暇がなかった。

 明治30年 (1897) 4月19日福島で死亡。69歳であった。 没後その名はますます高く浅草、福島、熱塩、喜多方に銅像が建てら れ、今なお敬慕されている。

所 在 地 北町

瓜生岩子生誕の地


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は喜多方市教育委員会に帰属します。
喜多方市教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。