目で見る 熱塩加納村の文化財 -027/144page
県 指定文化財
種 別 記念物・史跡 名 称 伝・佐原義連の墓 指定年月日 昭和三十一年九月四日 所在地 大字宮川字墓ノ西七五九 所有管理者 熱塩加納村教育委員会 会津領主芦名氏の祖佐原義連墓と伝えられる宝筐印塔【ほうきょういんとう】である。塔身に四方仏の種子【しゅじ】がほられ、種子(梵字【ぼんじ】)の左右に「右志者為性空永六八月日)」と刻字が認められたといわれるが、今は摩滅して不明である。
宝筐印塔は本来塔身内の石室内に経を納めるものであるが、日本では平安時代からつくられ、鎌倉中期から墓碑、追善供養塔【ついぜんくようとう】に転化した。中世のものは方形塔の蓋上【がいじょう】に数段の階段があり、その四隅【すみ】にインド風耳形突起を設けているのが特色である。
このように、この塔も中世のもので、川桁観音寺の塔(応永十八年銘)と同形式で、馬耳型方立が僅かに外傾し、室町時代応永年代の製作とみられ、したがって墓碑ではなく総供養塔とみなされる。
記録の上ではどうか。岩尾の佐原氏系図によれば、応永八年 (一四〇一)八月三日、時の領守芦名家七代直盛が大祖義連の 祖廟【そびょう】を佐原城に参拝し、ついでこの地(一ノ沢城、 廃城後寺となる)に供養の五輪を大祖の身長と同じくして建立 したと書かれてある。一方芦名家重臣富田家の年譜に「応永二 年八月十八日於那(耶)麻郡半在家佐原義連供養遠忌一塔右志 者為性空云々」とあり六年の開きがある。
傍に建つ 「平金吾義連碑」は会津藩祖保科正之が寛文八年(一六六八)先封領主の業績を顕彰しようと、時の学者山崎暗斉に命じて碑文を作成したが果せず卒居したのを、三代松平正容が元禄八年(一六九五)に河東町産の巨石をもって建立したものである。