目で見る 熱塩加納村の文化財 -046/144page

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 しかしこの種の墓つくりが一般化して、権威の象徴とし ての古墳の役割は失われ、七世紀後半になると大きさを制 限する制度が定められると共に、仏教思想の影響もあって 造寺へとかたむき、古墳文化は終りを告げる。

 この時代の人々は豪族層などを除けばいぜんとして堅穴住居に住んでおり、日常生活では弥生土器の系統をひく赤褐色の土師器【はじき】(本村から出土なし)と共に五世紀中頃に朝鮮半島より伝わった堅く灰色の須恵器【すえき】(本村の新村、円田から出土)が使われていた。

 わが村の古墳時代ならびに古代については調査、研究がおくれており不明であるが、ただ県文化財専門委員であった故二瓶清著の『会津文化史』によれば、左のような記録がある。

 これらを調査したが、古噴らしくはあるが今のところ古 墳と断定するにいたっていない。ただし、この内4の古墳 が畑地造成で破壊されることになったので、昭和五十四年 八月に発掘調査を実施したが、大方壇(13×13×2m)か らは何の遺物も出土しなかった。対角線上にあったもう一 基の小方壇(4.5×4.5×1.5m)からは、中央下層に円形の 土拡が確認されたが、遺物は何も出土しなかった。

 このように今のところ古墳時代については詳細不明であ る。

貝化石
貝化石
 村杉集落の山麓地より出土。この外本村では背戸尻、阿寺沢上福平、与内畑鉱山地下、山岩尾、黒岩、水沢などから出土している。 白亜紀(6,500万年〜14,300万年前)時代のものという。


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