目で見る 熱塩加納村の文化財 -045/144page
(三) 弥生時代のあらまし
東京の弥生町遺跡から発見された土器は、縄文土器とちがった赤褐色で質も比較的かたく、文様も簡素であるものであった。このことからこの土器使用の時代を弥生時代というようになった。
この時代は前・中・後期に区分され、紀元前三世紀ごろより紀元三世紀ごろまでのほぼ六〇〇年間とされ、年代も短く遺跡も数少ない。しかし文化史的にいって重要な時代で、南方や大陸から新文化が伝えられ、縄文文化を展開してきた人々はこの新文化を受けいれ発展させていった。
それは土器製作法の進歩、水稲耕作のはじまり、金属器の使用という新文化であった。なかでも水稲耕作の開始は意義が大きく、以後の日本の社会、経済、文化に決定的な影響を与えるのである。
全国的にみると、静岡の登呂遺跡などがあり、その時代の農耕生活を知る上に重要である。本村では水稲耕作の跡などはみつからず不明であるが、稲作を証明する石包丁【いしぼうちょう】の出土や、籾跡【もみあと】のついた土器が西会津町上野尻遺跡等からの出土などによって知ることができる。本村では八反田遺跡からと針生の上台遺跡から弥生土器がみつかっている。
(四) 古墳時代のあらまし
弥生時代の次の時代で、歴史時代にいたるまで、すなわち紀元前三世紀ごろより七世紀ごろまでで、前・中・後期の三期に区分されている。この時代は中央統一、国家形成の時代で、なかでも大和政権が全国を支配し、鉄器の普及【ふきゅう】や、水田への用水供給技術の発達による耕地の拡大、それによって本格的な農業生産にまで進んだ時期で、経済力の上昇にともない権力のある豪族が出現し、身分の差をつくりだした。そしてこれらの豪族は権力を象徴する大きな墓をつくりだしたのである。中でも有名なのは大阪の仁徳天皇陵で世界最大の墓といわれている。本県では会津若松の大塚山前方後円墳【ぜんぽうこうえんふん】が古く、前期古墳(四世紀末)といわれ、その副葬品の出土により会津文化の高かったことが証明されている。
古墳文化は全国に普及したが、このことは多くの有力者が地方に成長したことを示している。
古墳をその形状からみると、円墳、方墳、前方後円墳の三つに大別され、その内部は堅穴式石室であったが五世紀中頃より横穴式石室がつくられるようになり全国的に広がっていった。