目で見る 熱塩加納村の文化財 -049/144page

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二、古代のあらまし

 これから歴史時代に入るわけですが、歴史時代といっても既述した人類発生この方すべて歴史であるが、ここでは一応文字による記録から受ける歴史という意味である。

 日本では縄文時代人の頃より言葉があったといわれているが、文字はなかったので記録としては残っていない。日本に文字が伝来したのは定かでないが、歴史的には第十五代応神天皇八十五年(二八五頃) 朝鮮半島の百済【くだら】から阿直岐【あちき】、王仁【わに】が始めて漢籍を献じ儒教や漢字を伝えたとされ、それ以来大陸から朝鮮半島経由で諸文化が急速に流入し、先人たちの努力によって和銅五年(七一二) には現存では日本最古の歴史書「古事記」が漢文体により編さんされ記録として残されるようになったのである。

 古代は歴史時代の区分の一つで一部古墳時代とも重複する部分もあるが、飛鳥【あすか】時代(通説では奈良の飛鳥に朝廷があった時代で、推古天皇即位の五九二年より和銅三年(七一〇) の奈良遷都まで)、つづく奈良時代 (奈良に都平城京【へいじょうきょう】がおかれた和銅三年から延暦【えんりゃく】三年(七八四)まで)、つづく長岡京時代(普通平安時代に含める。奈良平城京より、京都平安京へ遷るまでの期間十年間)、つづく平安時代(都が京都平安京におかれた延暦十三年から鎌倉幕府が開かれる建久三年(一一九二)までの期間で四〇八年間)を古代とする。

 さて、この古代のうち古墳時代以降の六世紀頃の飛鳥時代、八世紀頃の奈良時代の本村の歴史を語る資料は皆無であり詳細を知り得ないが行政の概略を記す。

 弥生時代の稲作の始まりと共に農耕社会が成立し、多数の集落による共同作業がおこなわれ、それに伴ないまとまった地域を統一する者があらわれ、やがて集団の連合体(小国)が各地に成立した。

 三世紀頃統一国家成立の機運が高まり、その内の大和【やまと】朝廷が四世紀後半には成立し「ヤマト」(中国の書は倭) の大王【おおきみ】となった。その後「日本【やまと】」の称号、七世紀後半には大王より「天皇」 の称号と変った。

 大和朝廷はその勢力を拡大し、東北地方も次第にその勢 力下に入ってくる。八世紀頃には京、一畿・七道の行政区 画となり、相津(「古事記」七一二年に初見、のち会津) は東山道に属し「みちのおくのくに」より「みちのく」と そして「陸奥国【むつのくに】」に含まれる。

 大化二年(六四六) の改新により、地方は国【こく】(くに)・郡【ぐん】(こほり)・里【り】(さと。のち郷【ごう】)制となり、それぞれ国司【こくし】・郡司【ぐんじ】・里長【さとおさ】がおかれて政治をおこなった。八世紀頃


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